− 創設される法科大学院における法教育方法論 −
作成:2003年8月16日
名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山 茂
今から70年ほど前に書かれた[末弘・法曹雑記(1936),嘘の効用(1954)229頁]によれば,日本の法教育の現状と問題点が以下のように的確に表現されている。
法教育を含めて,すべての教育は理論の他動的教授によってのみ与えられると考えられてきた。講義では先生は常にまず学理と原則とを教える。それを説明する手段として多少の実例が引照説明される。先生は独断的に理論とその展開ないし応用を説ききかせるのみであって,学生の立場は徹頭徹尾受動的であった。
今までの教育方法は,知識を分量的に増加させることができる。しかし心と力とを養うことができない。学生は,幾多の理論的知識を得ることができるが,具体的事件に直面した場合に自分の知っている知識のうちどれをあてはめると問題が解決されるのか,それを直観的に判断決定すべき力を全くもたない。
このような的確な指摘にもかかわらず,わが国の法教育が,その後も,本質的には全く変わっていないことは,驚くべきことである。
日本において,法曹になるためには,司法試験という合格率が3パーセント程度という難しい試験に合格しなければならない。このことが,日本の法教育を上記のような教師による理論の他動的教授と学生による受動的な学習に終始させてきたといってもよい。しかし,このような他動的な教授と受動的な学習だけでは,創造的な法曹を育てることはできない。
そこで,21世紀に着手された日本の司法改革においては,法科大学院というアメリカ型のロー・スクールを創立し,そこにおいては,以下のような教育理念に基づく専門教育を通じて,司法試験の合格率を大幅に(3パーセントから少なくとも50パーセント以上に)アップさせ,受験技術にとらわれない,批判的・創造的な思考力を有する法曹を養成することになった[司法制度改革審・意見書(2001)]。
法科大学院における教育理念
専門的な法知識を確実に習得させるとともに,それを批判的に検討し,また発展させていく創造的な思考力,あるいは,
事実に即して具体的な法的問題を解決していくために必要な法的分析能力や法的議論の能力等を育成する。
ここで重要なことは,「創造的な思考力」を育成することにある。一見すると,[司法改革審・意見書(2001)]では,「専門的な法知識を確実に習得させ」た後に,それを批判的に検討・発展させていくのが「創造的な思考力」であるかのように読める。しかし,「創造的な思考力」を育成するために,まず,「専門的な法知識を確実に習得させる」という順序で教育したのでは,結局,「専門的な法知識を確実に習得する」という従来の法曹教育の段階で時間切れとなってしまい,最も重要な「創造的な思考力」を育成することはできないことが明らかである。そこで,法科大学院では,「専門的な知識を確実に習得させる」という最初の段階から,「創造的な思考力を育てる」ための周到な準備と,新しい教育方法を実現する必要がある。
そして,創造的な思考力を育てるための新しい教育方法のヒントは,実は,上記の意見書の法科大学院教育の基本理念の後半部分,すなわち,「事実に即して具体的な法的問題を解決していくために必要な法的分析能力や法的議論の能力等を育成する」という部分において,すでに明確に示されている。ここで大切なことは,「事実に即して具体的な法的問題を解決する」という最終目標が示され,そのための方法として,「必要な法的分析能力や法的議論の能力等」の必要性が明確に位置づけられているということである。
創造的な思考力を育てるためには,従来の教育方法とは逆に,まず,具体的な事例を示し,その問題を解決するためのルールを検索し,適切なルールを「発見する能力」を育てることが重要である。そして,適切なルールが見つからない場合であっても,既知のルールから,それを導き出している原理に立ち返り,既知のルールを構成しているさまざまな要素(法命題)を分析し直し,従来の解釈方法(拡大,縮小,反対,類推等)を縦横に駆使しながら,ルールの要素を新たに組み替えなおし,問題解決に適した新しいルールを創造しながら,問題を解決するという,「要素を組み替える能力」を育てなければならない。
事実の発見とルールの発見の相互関係 |
このような「発見する能力」,「要素を組み換える能力」を基盤とした「創造的な思考力」を育成する過程を通じて,逆に,「専門的な法知識を確実に習得させる」ことが可能となると考えるべきであろう。
「専門的な知識を確実に習得させる」ことと,「創造的な思考力を」育成することとの間には,密接な関係があることはすでに論じたとおりである。ところが,法曹資格を得るための最終試験である「新司法試験」を重視するあまり,法科大学院の教育は,やはり,「専門的な知識を習得させる」ことに重点を置くべきだとする考え方が根強く主張されている。
しかし,「専門的な知識を習得させる」ということは,専門的な知識を教えさえすれば,学生が専門的な知識を確実に習得するという単純な話ではなく,以下に詳しく論じるように,学生の脳の「長期記憶」に法的知識を「創造」しなければならのであって,実は,「創造的な思考力を身につける」ための教育方法と異なるところはないのである。
「専門的な知識を確実に身につける」というこは,法的な問題を解決するために,いつでも・どこでも使えるような「生きた知識」として,学生たちの頭の中に,専門的な知識を蓄積させるということでなければ意味がない。暗記だけして使えない知識をいくら詰め込んでも,問題解決には役立たないし,そのような知識では,相当時間を費やして行われる口頭試問には耐えれないからである。
ところで,頭の中にいつでも使える知識として蓄積された情報は,「長期記憶(LTM: Long Term Memory)」と呼ばれている。すべての学習の目標は,この長期記憶に生きた知識を蓄積することに尽きる。しかし,このことは,そう簡単なことではない。人間の脳に入力される情報のほとんどのものは,以下の3つの難関を越えることができず,長期記憶に達することなく途中で消滅してしまうからである。
生きた法的知識を習得するメカニズム |
ここでの最大の問題は,特に,法学未修者の場合,法的知識に関する情報の提供を受けても,それを理解するための長期記憶が存在しないため,教材を読んでも理解できず,講義を聴いても,わかったつもりになるだけで,長期記憶には蓄積できない,すなわち,学習目標が達成できないという点にある。つまり,法律に関する長期記憶がゼロの場合,法律に関する情報が短期記憶に移されても,長期記憶で照合の結果,意味不明の情報として,消去されてしまうのである。法科大学院における教育においては,なによりもまず,この問題こそが克服されなければならない。
「学ぶこと」および「教える」ことに関する最初の躓きは,この問題の解決の困難さに由来する。ソクラテスの言葉を借りると,「学ぶこと」,「教えること」に悲観的な「論争家ごのみの議論」とは,以下の通りである[プラトン・メノン45-46頁,145頁]。
人間は,自分が知っているものも知らないものも探求(学習)することはできない。というのは,まず,知っているものを学習するということはありえないだろう。なぜなら,知っているのだし,ひいてはその人に学習の必要がまったくないわけだから。また,知らないものを学習することもありえないだろう。なぜならその場合は,何を学習すべきかということも知らないはずだから。
学生や教師が教育の効果に懐疑的になった場合に発する以下のような独白も,これと対になっているといえよう。
学生:わかっていることは本を読んだり,講義を聞いたりすると,さらによく理解できる。しかし,わからないことは,本を読んでも,先生に教えてもらっても,結局わからない。
教師:「できる学生」は教えなくてもわかるが,「できない学生」は教えてもわからない。結局,教えても,教えなくても同じだ。
それでは,法的知識に関する超記憶がゼロであるという「悲観的な」前提に立った場合,法的知識を獲得することはいかにして可能となるのであろうか。
その答えは,目標とする知識と似たような構造をもつ知識が長期記憶に存在すれば,その知識との比較を通じて,目標とする知識に関する長期記憶を新たに形成することは可能であるというものである[フリチョフ・ハフト・法律学習法(1992)18頁]。そうだとすれば,法的知識の場合,誰でも持っている常識(常識的なルール)を活用することによって,法的知識を常識の長期記憶の上に追加することが可能であると考えることができる[溝口・人間の記憶への情報処理アプローチ(1983)79頁]。
つまり,法的な知識に関して長期記憶がゼロの学生に対して,「法的知識を確実に習得させる」ためには,いきなり法的知識を与えても,何の意味も持たないのであり,まずは,法学未修者がこれまでに獲得している長期記憶として共通部分となっている日常的な事例を選び,常識による解決との比較を通じて,法的知識を提供すること,そして,そのような基礎的な法的知識が長期記憶に蓄え始められたことを見計らって,より高度の法的知識を基礎的な知識との対比において提供するといった方法が採用されなければならない。
このことは,法的知識に関する長期記憶がゼロの学生を対象としながら,各人の長期記憶に適合するように法に関する知識を漸次増加させているプロセスであるが,このことは,各人の「長期記憶」の「創造過程」として捕らえることが可能である。
すなわち,「専門的な知識を確実に習得させる」ということは,各人の脳の中に,法的知識に関する「長期記憶」を「創造」することにほかならず,各人によって異なる多様な「長期記憶」が創造されることを意味する。このことは,長期記憶の質と量が一定に達した場合に,多様な長期記憶から,創造的な思考方法が生まれてくることを期待できるのは,以上の理由による。
確かに,法学未修者の頭脳に法的知識に関する長期記憶を創造するという作業は,簡単なものではない。しかも,法科大学院においては,従来の法学部の学生が約4年をかけて行ってきたことを,1年間で実現しなければならない。しかし,法科大学院では,学習と教育に関するの悲観論を乗り越えて,このことを実現しなければならない。
再びソクラテスの言葉を借りれば,そして,ここで「魂」といわれていることが,歴史の産物としての「人類の脳」であるとの解釈が許されるならば,学習と教育の可能性を以下のようにまとめることが可能であろう[プラトン・メノン48頁]。
事物の本性というものは,すべて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから,もし人が勇気をもち,探求(学習)に倦むことがなければ,ある一つのことを想い出したこと −このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが− その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのものを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求するとか学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することにほかならないのだ。だからわれわれは,さっきの論争家ごのみの議論を信じてはならない。なぜならあの議論は,われわれを怠惰にするだろうし,惰弱な人間の耳にこそ快くひびくものだが,これに対していまの説は,仕事と探求(学習)への意欲を鼓舞するものだからだ。
ところで,新しい知識を各人の脳の長期記憶に移す作業は,各人のこれまでの「長期記憶」の内容に依存する。したがって,「できる」学生は,新しい知識を,自分の長期記憶と照合し,それに適合するように,簡単に再構成して,新しい長期記憶へと移すことが可能である。しかし,法律に関する長期記憶を有していない「できない」学生にとっては,そもそも,入力されてくる情報を受け入れることができない。なぜなら,先に述べたように,長期記憶にない情報は,感覚バッファーを通じて短期記憶に入ったとしても,長期記憶と照合された結果,意味のない情報として捨てられてしまうからである。したがって,法に関する情報を意味のあるものとして受け入れるためには,各人の頭の中に,1から法律に関する長期記憶を作っていく作業が必要となる。
しかも,法律の知識を「長期記憶」に蓄えることができるのは,学生本人の努力次第であり,他人がこれを行うことはできない。出発点としての長期記憶は,人によって千差万別であり,どのような情報を提供すれば,長期記憶に法的知識が効率的に再編されるかは,その人の長期記憶に依存するからである。特に,法律の知識が長期記憶化していない段階で,特に,法科大学院の場合,法学未修者である1年生の段階で,法律に関する情報をいくら講義しても,その情報は理解されないままバッファから溢れて消え去るのみである。
この問題をさらに困難としているのは,教育の対象である学生の長期記憶の内容を教育する側が把握できないからである。法知識に関して,個々の学生の長期記憶の内容がどの程度であるかを評価するためのテスト問題が開発できれば,この点は,かなり改善される。しかし,このようなテストが開発されていない現状では,教師の側は,法学未修者の法的知識に関する長期記憶はゼロであると推定して教育に取り掛からざるを得ないであろう。
しかしながら,考え方によっては,体系的な法的な知識が長期記憶に全く蓄積されていない法学未修者の教育は,むしろ,やりやすいともいえよう。間違った長期記憶との矛盾に苦しむということがなく,しかも,個人差を無視して,一から始めることが可能だからである。つまり,法学未修者の長期記憶に法的知識を蓄積する方法は,方法論的には,かなり統一的に論じることが可能であるということになる。
また,知識の習得のメカニズムは,どの分野の学問にとっても共通のことなので,他の分野の学問を習得した経験がある人にとっては,法的知識を確実に習得するという作業,すなわち,法的知識の長期記憶化は,「案ずるより生むが易し」ということになると思われる。
以上の考察から,「専門的な知識を確実に習得させる」ということは,個々の学生の頭の中に,法律の知識を単純化・構造化・体系化して,「長期記憶」に蓄積させることであることが理解できた。この点を踏まえて,「長期記憶」の観点から「専門知識を確実に習得する」ための方法を提言するとすれば,以下のようになると思われる。
知識の習得とは,各人の脳の中に,いつでも・どこでも利用できる知識としての長期記憶を「創造する」ことであることを論じた。ここでは,創造性について,さらに詳しく考察することにする。
創造性といっても,「太陽の下,新しきものなし(Nothing is new under the sun)」といわれるように,創造とは,既存の要素の新しい組み合わせに過ぎない。例えば,新しい化学物質の創造も,原子や分子の新しい組み合わせに過ぎないし,新しく生まれる子供たちでさえも,親の遺伝子の組替えに過ぎない。
創造性との関連(たとえば,資本主義における「創造的破壊」)でよく用いられるイノベーション(革新)という用語も,それを提唱したシュンペーター(J. A. Schmpeter)も,初めは,「新結合(neue Kombination)」という言葉を用いて,生産要素(資本財,労働,土地)の結合の仕方,すなわち生産方法におけるいっさいの新機軸を表現していた[シュムペーター・経済発展の理論(1912)(上)180頁以下]。そして,これに新商品や新生産方法の導入のほか,新市場,資源の新供給源,新組織の開拓など,きわめて広範な事象を含ませていた。シュンペーターが明示的に「革新(Neuerung = innovation)という概念を用いたのは景気循環の説明においてであった(大野忠男「イノベーション」平凡社世界百科事典)。
このように考えると,法科大学院における「法創造教育」とは,新しい事実の出現に対して,今までの法律のルールや判例の法理を組替え,新しい事実に適応できる新しい組換えのルールを用意することができる能力の育成だということになる。
このことは,AIDS(エイズ:後天性免疫不全症候群)やSARS(新型肺炎:重症急性呼吸器症候群)等の新型のウィルスの攻撃から身を守るために,私達の免疫組織が遺伝子の組み合わせを変えながら,そのウィルスを撃退できる新しい免疫組織を創造する仕組みと似ていると思われる。
創造性という場合には,その概念の中に,「新規性」,「高度性」,「有用性」が含意されているというのが一般的な考え方であろう。たとえば,[Boden, Creativity and Law (2003), p.1]は,創造性とは,「新規で(new)高度で(surprising)有用な(valuable)アイディアを生成できる能力である」と定義している。
しかし,何が「高度」で,何が「有用」であるかは,時代によって変化するし,ある特定の時代においてさえも,オール・オア・ナッシングに決定できるものではなく,量的かつ相対的に評価すべき事項であるに過ぎない。
確かに,創造性を追求する場合には,「高度」で,「有用」な創造性を目標とすべきである。しかし,創造性が,先に述べたように,環境の変化に対応できるための多様性を保持する必要性という観点を重視するのであれば,創造性の中にも,あまり「高度でない」創造性や,あまり「有用」でないが,「新規な」創造性というものが存在しても不都合はないと考えるべきであろう。つまり,創造性の中に,非常に高度だが有用性はそれほどでもない創造性がありうるのであり,反対に,それほど高度ではないが,有用性は非常に高い創造性もありうる。さらには,あまり高度でもなく,それほど有用でもない創造性もありうると考えるべきなのである。
ある時代に,「高度」で「有用」であると判断されたものが,次の時代に「平凡」で「無用」であると判断されることが良くあるし,反対に,ある時代に「平凡」で「無用」であると判断されたものが,環境の激減した次の時代には,「高度」で「有用」であると判断された例も少なくない。後者の例は,特に警戒すべきである。未来に「有用」である可能性を秘めている創造を,現在の基準で「無用」と判断し,創造の芽を摘み取ってしまうことは,特に,創造性の教育においては,厳に慎まなければならない。
さらに,「高度性」,「有用性」は,より高度であるとか,より有用であるとかというように,幅を持った連続した概念であるため,創造性の定義に内在させて,現在の基準では,「高度性」が低く,「有用性」の劣る「創造性」を,創造性がないとして,切り捨てることは,非常に危険である。したがって,「高度性」,「有用性」は,創造性の定義に取り込むのではなく,創造性のレベルを評価する評価基準に過ぎないと考えるのが適切であろう。
なお,この点に関しては,本稿の最後に,比較表を利用した創造教育の評価の箇所で,さらに詳しく論じることにする。
わが国における従来の法曹教育は,司法研修所における要件事実教育に代表されるように,出来上がったルールを金科玉条のように扱い,どのような事実の組み合わせに対しても,それを画一的に適用し,同じ事実関係には,常に同じ判決を導くことができるような能力を養うことをもって法曹教育の主眼としてきたように思われる。確かに,このような教育は,新しい事実が生じないいわゆる安定的な社会においては,意味があるかも知れないが,絶え間なく新しい事実が出現するような変化の激しい社会においては,通用しない。これは,比喩的にいえば,硬直した免疫組織では,新しいウィルスの出現に対応できずに,いたずらに個体の死,さらには,種の滅亡を迎えるしかないのと同じである。
変化する事実に対応できる新しいルールを生み出す能力は,これまでの事実に対して判決によって導き出された法理を分析し,その法理を金科玉条のように覚えこむのでは足りない。むしろ,判決の法理の適用範囲(判決の射程)を見極め,事実が変わった場合には,その法理だけで対処する(拡大解釈・類推解釈に頼る)のではなく,その法理の適用をあきらめ(縮小解釈・反対解釈・例文解釈を活用する),その判決の法理とは異なるが,ある観点から見るとその法理に近い法理をいくつか選んで,新しい組み合わせを色々と試してみて(他のルールの拡大解釈・類推解釈を試みることも有用),その結果として,新しく,かつ,新しい事実に適合的な有用なルールを創造するという高度な技能訓練をも行う必要があると思われる。
法教育においては,教師と学生との共同作業を通じて,学生に対して,法律家と同じような創造的な思考法を身につけるための教育がなされなければならない。そして,その目的を達成するためには,教師と学生との間のコミュニケーションが効率的に行われる環境を作り出す必要がある。
そもそも,何らかの共同作業を行うためには,その構成員の間に相互理解が存在しなければコミュニケーションが成り立たない。法廷において,裁判官,検察官,弁護士が紛争を解決したり,真理を追求したりする場合にも,法律の専門知識のレベルがほぼ同一でなければ,その目的を達することはおぼつかない。
法教育の場において,教師と学生との間で効率的なコミュニケーションを実現するためには,学生の予習が重要な役割を果たす。教師が学生を育てる場合に,予習をし,何が問題で,どこがわからないかをあらかじめ理解している学生を相手にするのと,予習をせずに,教師のいうことを聞いてノートをとるだけの学生を相手にするのでは,その教育内容に格段の差が生じる。教育目標を達成するためにも,教師と学生との間のコミュニケーションが不可欠であり,予習には,相互のコミュニケーションを飛躍的に高めるという効用がある。
後に述べるケース・メソッドの講義方法としてロー・スクールで採用されると思われるソクラティック・メソッドも,教師と学生との間の対等な関係での高度なコミュニケーションが成立することを前提にしている。したがって,講義方法として,講師がソクラティック・メソッドを採用する場合には,あらかじめ学生に教材を準備しておき,学生に予習をさせておくことが不可欠となる。それだけでなく,入学早々の3週間ぐらいは,「予行演習」が必要であるとの見解もある[米倉・民法の学び方(2003)]。
創造的な思考方法を身につけるということは,従来にはない思考方法を発見することである。そのためには,日々の学習の中に,相対的ではあっても,発見のプロセスを組み込む必要がある。
課題の答えを教えてもらう前に,それに対して自分の力で答えを発見するプロセスとしての予習は,なにも努力をせずに教えてもらった答えを知ってからその課題を解くプロセスとしての復習とは,根本的に異なる。予習をして,課題の意味と困難さを知った学生と教師の間には,深い密度のコミュニケーションが成り立ちうるし,相互の信頼と尊敬の関係をも確立することができる。そのような環境の下で行われる,ケース研究や演習を通じて,創造性が育っていくと思われる。
もっとも,このことは,復習の有用性を否定するものではない。試験勉強という復習を余儀なくされることを通じて,初めて頭の中が整理され,講義の意味を理解することができたという経験をした人は少なくないと思われる。そのような復習は,数秒から数分で消えていく「短期記憶」を,いつでもどこでも利用できる「長期記憶」へと変化させるという重要な役割を果たしている。つまり,そのような復習は,「長期記憶」の創造という作用を伴っている点で有用なのである。
創造性を身につけることが,学習の最初の段階から必要とされる点については,[フリチョフ・ハフト・法律学習法(1992)52頁]の以下の記述が参考となろう。
法解釈学の教授資格取得論文における最高の基準は独創性(オリジナリティ)である。大胆で,新しく,将来性のあるモデルがあればよいと願う。既存のモデルだけしか用いない学者はほとんどいない。もっとも,学生はそのたびにしばしば苦労している。そんな時,学生は何らかの権威に追随する傾向がある(特に好まれるのは,通説である。)しかし,これでは解決にならない。早くも学生時代に多様なモデルのディレンマから抜け出るには,自分自身が責任意識をもってモデル化の自由を行使する,つまり,独り立ちして自分自身のモデルを形成するしかない。この理由から,学習の際に自分自信の構造を作り上げることがきわめて重要なのである。
ケース・メソッドは,予習を前提とした場合,具体的な事件を取り上げることで,従来の思考方法では限界があることを気づかせることになる点で,創造的な思考力を育成するために有用である。
[末弘・法曹雑記(1936),嘘の効用(1954)229頁]には,ケース・メソッドに関する以下のような興味深い理解が示されている。
ケース・メソッドは禅の修行に類似した教育方法である。先生は教えないでただ公案を与える。公案を与えて考えさせる。公案を与えつつ老師の与えるヒントによってみずから悟りに赴くようにさせるところに禅の修業の本旨がある。ケース・メソッドは畢竟これと同じところをねらった教育方法である。
このように,教育の主体はあくまで学生であって,その学習を促進するために,まず,問題を提案し,学生が行き詰ったときにヒントを与えるのが教師の役割であると考えるならば,ケース・メソッドの考え方は,確かに,アメリカのハーバード大学のラングデル教授の発想によるものではあるが,その方法論は,すでに,禅の修業では実現されており,日本における伝統的な考え方に合致するものであるともいえよう。
ある制度を外国から導入する場合に,その制度に関する類似の制度,または,その制度の萌芽が導入先の国にない場合には,それがいかに優れた制度であっても,制度の導入に失敗することが多い。しかし,ケース・メソッドは,その精神が,すでに,わが国の代表的な文化の一つである禅において,その修業過程で実現されているとすれば,わが国に導入した場合に,それが,根付くことなく廃れてしまうというのは,杞憂に過ぎないと思われる。
新しい観点の発見は,比較から生じることが多い。たとえば,他人と自分とを比べてみてはじめて自分を知ることができる。また,外国語を習得して初めて自国語の特色を発見することができる。
法律家にとって創造の源泉となっている法制史も比較法も,時間的,場所的比較である。このように,新しい組み合わせは,要素を表に表現することによって発見できることが多い。そして,問題点を表にすると,複雑な議論が単純となり,理解が深まる。さらに,問題点を表にまとめて見ると,抜けている論点が明確になり,創造性が促進される。
最後の点について,以下で,詳しく論じることにしよう。
創造性は,従来の知識で欠けている点の発見と,新しい観点による知識の再構成と考えることができる。従来の知識で欠けている点の発見も,また,新しい観点による知識の再構成に際しても,比較表の利用が有用である。
たとえば,「比較の重視」の箇所で紹介した,「他人と自分とを比べてみてはじめて自分を知ることができる。外国語を習得して初めて自国語の特色を発見する。」という言明を対照表を使って発見する方法を考えてみよう。この方法は,さらに,創造的な思考力をみにつけるための,かなり一般的なプロセスへとつなぐことができると思われる。
最初に,ソクラテスとゲーテという偉人の言葉を単純に比較するための表を作成してみる。
人名 | 命題 |
---|---|
ソクラテス | 汝自身を知れ (Know thyself.) |
ゲーテ | 外国語を知らない者は,自国語についても何も理解できない (Those who do not know foreign language, do not understand their own language at all.) |
この表は,データベースとしては意味があるかもしれないが,それ以上の意味はない。この段階では,表は,創造的な思考力を育成するための比較表とはなっていない。
意味のある比較表を作成するために大切なこと(戦略)は,以下の3点に要約することができる。
これらの3つの戦略は,無関係に見えるものには共通点を,相違すると見えるものには類似点を,類似すると思われるものには相違点を見出すような観点を発見しようとするものであり,世間で言えば,「あまのじゃく」な思考方法である。しかし,比較表の意味は,共通項目間の要素の対比を通じて,その相違点と共通点とを明確にして,深い洞察を誘発するものであるから,このような作業が必須となるのである。
このような,一見,世間とは逆の思考方法を採用することによって,これまでに気づかれなかった観点を発見する能力,すなわち,創造的な思考力が育成されることになるのである。
さて,ソクラテスの命題とゲーテの命題とは,一見,全く関係がないように思われるので,第1の戦略にしたがって作業を開始する。つまり,2つの有名な命題(金言)の共通点を見出す作業を行う。そのような共通点が見つかると,それを基準として意味のある比較表を作成することが可能となるからである。
ところが,一見しただけでは,ソクラテスの「汝自身を知れ」とゲーテの「外国語を知らない者は,自国語についても何も理解できない」とは,全く独立の相互に無関係の命題であって,その間に共通点を見つけることができないように思われるかもしれない。
しかし,前者が肯定的命題であり,後者が,否定的命題であることに着目し,両者を肯定文として比較するため,後者に対して,論理計算上の「対偶()」の公理(( a → b ) ⇔ (¬b → ¬a ))を使って,意味を変えることなく肯定的命題として表現しなおすと,共通点が見つかる可能性が増大する。
ゲーテの命題を,対偶を使って,意味を保持したまま,肯定命題に書き直すと,以下のようになろう。
ゲーテの命題が,対偶を用いることによって,肯定文で表現できたので,これを,さらに,ソクラテス流に命令文で表現すると,以下のようになろう。
これで,ソクラテスの命題とゲーテの命題の表現形式が共通となった。以上の作業は,かなり複雑な過程であるが,以下のようなヒントとともに,課題を与えるならば,複雑すぎて解答が困難な問題とはいえないであろう。
【練習問題1】 ソクラテスの「汝自身を知れ」とゲーテの「外国語を知らない者は,自国語についても何も理解できない。」を対等なレベルで比較するために,否定文と否定文の組み合わせとして表現されているゲーテの格言を,内容を変更せずに,肯定文と肯定文の組み合わせに書き換えなさい。
- 外国語を知らない者は,自国語を理解できない者である。
- →すべて肯定文へ ( )
【練習問題2】 肯定文と肯定文の組み合わせに変更されたゲーテの格言を,ソクラテスの格言のように,命令文に書き換えなさい。
- ソクラテスの格言としての命令文…汝自身を知れ
- ゲーテの格言を肯定文に変更した後,命令文に変更→ ( )
いずれにせよ,このプロセスを通過できれば,創造的な思考力を育成するための次のステップに進むことができる。
ソクラテスの命題とゲーテの命題を形式を同じようにすることを通じて,両者の共通点が見えてくる。それは,「何かを知ること」であり,後者の場合には,「何かを知るためにすべき方法」にも触れていることが理解できる。ここまで,理解が進めば,共通点を項目として抽出して,意味のある比較表を作ることができる。
人名 | 命題 | |
---|---|---|
目標 | 手段 | |
ソクラテス | 汝自身を知れ | − |
ゲーテ | − | 自国語を知ろうと思えば,外国語を知れ |
このように比較表を作成してみると,ソクラテスの言った「汝自身を知れ」と,ゲーテの言った「外国語を知らない者は,自国語についても何も知らない」という言明を同一の観点から比較することが可能となる。
なお,上記の表1-2のように,空白のある表は,学生に課する最も初歩的な問題として有用である。たとえば,以下の通りである。
【練習問題3】 表1-2の空白部分を適切な用語で埋めなさい。
共通項の抽出によって比較表を作成してみると,それぞれの命題の空白部分が明確になることが確認された。そして,その空白部分を補充することは,比較的容易である。
ここでは,上記の表の空白部分を補充するとともに,さらに比較項目の人名を学問へと変更して,より一般的な表に作り変えてみよう。
学問分野 | 命題 | |
---|---|---|
目標 | 手段 | |
哲学 | 自分自身を理解する | 他人を知る |
言語 | 国語を理解する | 外国語を知る |
以上で,ソクラテスとゲーテの格言の対照表は,一応の完成をみたことになる。ここまででも,一見全く異なる格言に共通する観点を見出し,ゲーテの格言をソクラテスの格言と共通の土俵に上げることができた。また,ソクラテスの格言に対しても,ゲーテの格言を参考に,内容を追加することができた。
しかし,この比較表をこれで終わりにすることはない。手段の項目をさらに追加することによって,また,学問分野を追加することによって,新規で,高度で,有用な命題を創造することが可能だからである。
【練習問題4】 練習問題3により,空白が埋められた表においては,手段の項目がひとつしかない。しかし,目標を達成する手段として「他人を知る」とか,「外国語を知る」といった手段のほかに,これとは異なる方法は存在しないものだろうか。もしも存在するとすれば,それについて考察した後,それらの方法に共通する観点を共通項目として追加してみなさい。
学問分野 目標 目標を達成するための手段 ( ) ( ) 哲学 自分を知る 自分を知るために,他人と比べてみる ( ) 言語 自国語を知る 自国語の特色を知るために,外国語と比べてみる ( )
比較表を作成することは,違った観点の発見にも役立つ。上記の表1-3においては,手段の項目が,他のものとの比較,すなわち,空間的比較しかなされていない。そのことに気づけば,以下のように,空間と対比される時間による対比を思いつくことは,容易であろう。
学問分野 | 目標 | 目標を達成するための手段 | |
---|---|---|---|
空間的比較 | 時間的比較 | ||
哲学 | 自分を知る | 自分を知るために,他人と比べてみる | 自分を知るために,自分の祖先,または,自分の遺伝子を調べてみてみる |
言語 | 自国語を知る | 自国語の特色を知るために,外国語と比べてみる | 現在の自国語の特色を知るために,自国語の歴史,すなわち,古文と比べてみてみる |
この比較表は,法に関する項目を追加することによって,さらに,発展する。学生には,以下のような課題を与えて,法教育の目標とその手段について考察させるのが有益であろう。
【練習問題5】 練習問題4で作成した表の学問分野の項目の言語の下に「法学」の項目を追加し,その目標と目標を達成するための手段について,内容を追加してみなさい。
学問分野 | 目標 | 目標を達成するための手段 | |
---|---|---|---|
空間的比較 | 時間的比較 | ||
哲学 | 自分を知る | 自分を知るために,他人と比べてみる | 自分を知るために,自分の祖先,または,自分の遺伝子を調べてみてみる |
言語 | 自国語を知る | 自国語の特色を知るために,外国語と比べてみる | 現在の自国語の特色を知るために,自国語の歴史,すなわち,古文と比べてみてみる |
法学 | 法を知る | 自国(州)法を知るために,他の国(州)の法と比べてみる | 自国(州)の法の特色を知るために,法の歴史をさかのぼってみる。 |
このようにして,比較表による比較の方法は,新たな項目を追加したり,新たな観点を導入することを通じて,創造的な思考力を育成するのに有効であると思われる。なぜなら,比較表の作成作業を通じて,項目に対応する空白部分が発見され,それが埋められたり,あらたな項目の追加によって新たな命題が生成されることになり,学生たちに創造的な作業を追体験させることができるからである。
このようなプロセスは,すべて,創造的な思考方法の育成に関する重要なプロセスであるが,このようなプロセスを通じて,創造されたものを,命題としてまとめておくことも重要である。
【練習問題6】 これまでの作業(比較表の作成)を通じて,自分が発見したことを文章で表現してみなさい。
ソクラテスの「汝自身を知れ」とゲーテの「外国語を知らない者は,自国語についても何も理解できない」という2つの格言に関して,筆者の提唱する比較表の作成によって新たに作られた命題は以下の通りである。
このような結果を示すと,以下のような反論がなされることが予想される。
しかしながら,このような反論に対しては,さらに,以下のように反論することが可能である。
以上のような比較表を使った教育方法は,法教育においても有用である。英米法における「鏡像原則(Mirror Image Rule)」を理解したり,わが国の法解釈における発見を導く上で,比較表を使った教育がいかに有用であるかを,以下に,具体的に示すことにする。
鏡像原則(Mirror Image Rule)とは,一般に,以下のような原理であると理解されている。
この「鏡像原則」をそのまま表現した原理は,日本には,存在しない。しかし,この原則を,反対側から規定した条文は,日本民法にも存在する(民法528条)。すなわち,民法528条は,承諾が申込に変更を加えている場合には,申込の拒絶と新たな申込に過ぎないと規定しており,「鏡像原則」に対相当するものと考えられる。そこで,「鏡像原則」を表現したものとして,日本民法の条文(民法528条)比較表の一つの項目に加えることにする。
そして,「鏡像原則」を原則としては採用しながら,重大な変更を加えているCISG第19条とを対比して,「鏡像原則」の現状を理解するとともに,「鏡像原則」を例外なしに採用している日本民法にはどのような変更が必要とされているのか,それとも,その必要がないのかを検討することにする。
最初に,「鏡像原則」に忠実な日本民法(528条)と,「鏡像原則」を原則として承認しているCISGの該当条文(CISG第19条1項)とを比較のための項目とし,日本でも,国際条約でも,「鏡像原則」が同じように機能していることを確認する。
原理 | 日本民法 | CISG | |||
---|---|---|---|---|---|
名称 | 内容 | 条文 | 内容 | 条文 | 内容 |
鏡像原則 (Mirror Image Rule) |
契約が成立するためには,申込と承諾の内容は,実像と鏡に映った像と同じように,厳密に一致することが必要である。 | 第528条 〔変更を加えた承諾〕 |
承諾者カ申込ニ条件ヲ附シ其他変更ヲ加ヘテ之ヲ承諾シタルトキハ其申込ノ拒絶ト共ニ新ナル申込ヲ為シタルモノト看做ス | 第19条 | (1)承諾の形をとっているが,付加,制限その他の変更を含んでいる申込に対する回答は,申込の拒絶であり,反対申込となる。 |
契約が成立するために,なぜ,申込の内容と承諾の内容とが厳密に一致していなければならないのかという「鏡像原則」の存在意義を尋ねる問題は,合意形成に関する根本問題である。
個人が自己決定できる範囲を超え,他人の自己決定の及んでいる領域に入り込んで自己実現を行おうとする場合には,他人の許可,すなわち,合意形成が必要となる。合意形成の問題は,実は,他人の自己決定に属する問題について,他人の干渉を許す問題であるから,本来なら許可を与える必要のない側,すなわち,被申込者の権利が厚く保護されなければならないという問題なのである。申込は,被申込者に対する承諾権限の授与行為であると説明されているのも,以上の理由に基づく。
しかしながら,申込に対して変更を加えて承諾することは,被申込者の権利を尊重して,合意を形成しようと欲し,敢えて,被申込者に承諾権限を与えて弱い立場に立った申込者に対する,被申込者による,信義誠実の原則に反する不意打ち行為であり,承諾権限の濫用行為に他ならない。したがって,この場合には,被申込者の不意打ち行為(権限の濫用)によって,むしろ,弱い立場に立たされた申込者を保護する必要が生じる。
このように考えると,「鏡像原則」とは,単に,合意形成に厳密性を要求するといった技術的な問題ではなく,弱い立場に立った申込者に対する被申込者の不意打ち行為(信義誠実の原則に反する承諾権限の濫用)から申込者を保護するために,「変更を加えた承諾」を「承諾」ではなく「反対申込」とみなして,申込者と被申込者の立場を逆転させ,申込者が被申込者に与えた承諾権限を申込者に返還するという,優れて政策的な機能を有する原則なのである。
そうだとすると,信義則と権利濫用の法理によって支持されている「鏡像原則」に関して,後に論じるように,再度信義則を適用することは,むしろ,当然のことであると考えることができる。
次に,CISGにおいては,その19条2項によって,「鏡像原則」が,どのように修正されているかを見てみよう。
原則 | 日本民法 | CISG | |||
---|---|---|---|---|---|
名称 | 内容 | 条文 | 内容 | 条文 | 内容 |
鏡像原則 | 契約が成立するためには,申込と承諾の内容は,実像と鏡に映った像と同じように,厳密に一致することが必要である。 | 第528条 〔変更を加えた承諾〕 |
承諾者カ申込ニ条件ヲ附シ其他変更ヲ加ヘテ之ヲ承諾シタルトキハ其申込ノ拒絶ト共ニ新ナル申込ヲ為シタルモノト看做ス | 第19条 | (1)承諾の形をとっているが,付加,制限その他の変更を含んでいる申込に対する回答は,申込の拒絶であり,反対申込となる。 |
鏡像原則の修正 | 申込に対する承諾に変更が加えられていても,それが,申込の内容を実質的に変更するものではなく,かつ,申込者が,その承諾に対して,直ちに異議を述べない場合には,契約は,変更を加えた承諾の内容でもって成立する。 | − | − | (2)しかしながら,承諾の形をとった申込に対する回答が,付加的条件や異なった条件を含んでいても,申込の内容を実質的に変更するものでない場合には,申込者が不当に遅滞することなくその相違に口頭で異議を述べ又はその旨の通知を発しない限り承諾となる。申込者が異議を述べない場合には,契約の内容は申込0内容に承諾中に含まれた修正を加えたものとする。 |
この表からは,原則では一致していたものの,申込に変更が加えられてはいるが,その変更が実質的な変更でなない場合においては,日本民法とCISGとは,完全に結論を異にすること,したがって,例外的な場合については,両者の間には,はっきりとした区別,あるいは,対立があることを読み取ることができる。
同じ原則から出発しながら,両者に相違と対立が生じたのはなぜなのか。その点を理解することが,重要である。なぜなら,理由がわかれば,対立する問題に対して,共通理解を導くことが可能になることが少なくないからである。
CISGは,その第9条1項で,鏡像原則から出発しながら,その第2項で,以下の条件を備えた場合には,変更を加えた承諾は,反対申込ではなく,承諾として認められる旨を規定している。
このような結論は,どのようにして導かれるのか,この結論は,CISGの他の原則と矛盾しないのかを,以下で,詳しく考察することにする。
上記の条件のうち,第1点は,どのような場合に,実質的な変更ではないといえるかどうかという問題であり,この点については,CISG19条第3項が,以下のように規定して,問題の解決を図っている。
そこで,ここでの問題は,上記の条件のうちの第2点に集中することになる。つまり,この問題は,CISGの場合,「被申込者の変更を加えた承諾(原則として申込の拒絶と新たな申込(反対申込))に申込者が異議を述べないと,なぜ,承諾したのと同じ結果となるのか」である。
この問題については,CISGは,その18条1項で,19条2項とは矛盾する解決策(「沈黙原則」)を採用している。
それでは,被申込者の変更を加えた承諾,すなわち,反対申込に対して,申込者が,単に沈黙するだけで,それに対する承諾とみなされるのはなぜであろうか。
このことを検討するに際して,上記の表の最後に,CISG18条1項の沈黙の原則(単なる沈黙は承諾とはみなされない)という項目を追加し,比較項目に関する相違・対象が単純でないことを明らかにしておこう。
比較項目として沈黙原則が追加された以下の表2-3においては,日本民法528条とCISG第19条2項との相違・対立だけでなく,以下のように,CISG第19条2項と,CISG第18条1項との相違・対立も明らかとなる。
原則 | 日本民法 | CISG | |||
---|---|---|---|---|---|
名称 | 内容 | 条文 | 内容 | 条文 | 内容 |
鏡像原則 | 契約が成立するためには,申込と承諾の内容は,実像と鏡に映った像と同じように,厳密に一致することが必要である。 | 第528条 〔変更を加えた承諾〕 |
承諾者カ申込ニ条件ヲ附シ其他変更ヲ加ヘテ之ヲ承諾シタルトキハ其申込ノ拒絶ト共ニ新ナル申込ヲ為シタルモノト看做ス | 第19条 | (1)承諾の形をとっているが,付加,制限その他の変更を含んでいる申込に対する回答は,申込の拒絶であり,反対申込となる。 |
鏡像原則の修正 | 申込に対する承諾に変更が加えられていても,それが,申込の内容を実質的に変更するものではなく,かつ,申込者が,その承諾に対して,直ちに異議を述べない場合には,契約は,変更を加えた承諾の内容でもって成立する。 | − | − | (2)しかしながら,承諾の形をとった申込に対する回答が,付加的条件や異なった条件を含んでいても,申込の内容を実質的に変更するものでない場合には,申込者が不当に遅滞することなくその相違に口頭で異議を述べ又はその旨の通知を発しない限り承諾となる。申込者が異議を述べない場合には,契約の内容は申込0内容に承諾中に含まれた修正を加えたものとする。 | |
鏡像原則の修正(CISG19条2項)と 沈黙原則(CISG18条1項)との間における 矛盾の発見 |
申込の相手方が,何もしない,異議を述べないからといってそれが承諾とみなされることはない。 | − | − | 第18条 | (1)申込に同意する旨を示す被申込者の陳述その他の行為は,承諾とする。沈黙又は反応のないことは,それだけでは承諾とみなされることはない。 |
表2-3に生じている矛盾・対立点は,どのようにして克服されるのであろうか。条文(Rules)間の対立を解消することができるのは,メタ規範としての一般条項,または,原理(Principles)以外にはない。すなわち,「鏡像原則」を修正しているCISG第19条2項は,CISGの第7条1項に規定されている信義則の原理を適用することによって,CISG18条1項の「沈黙は承諾とならない」という原則との間の矛盾が解消されるのである。
ルールは原理を実現するものでなければならず,反対に,原理はルールや判例を説明できなければならないといわれている[Hage & Sartor, Legal Theory Construction (2003)p. 172]。CISG19条2項のルールとCISG18条1項のルール間の矛盾・対立は,一般原理としての信義則の原理(CISG第7条)によって,矛盾なく,以下のように,統一的に説明されることになる。
このように考えると,日本民法528条とCISG第19条2項とは,全く異なる条文であり,CISG19条2項は,民法528条とは無関係の異質の条文であると理解するのではなく,以下の表2-5のように,両者に連続性を見出すことができる。
原理 | 日本民法 | CISG | |||
---|---|---|---|---|---|
名称 | 内容 | 条文 | 内容 | 条文 | 内容 |
鏡像原則 | 契約が成立するためには,申込と承諾の内容は,実像と鏡に映った像と同じように,厳密に一致することが必要である。 | 第528条 〔変更を加えた承諾〕 |
承諾者カ申込ニ条件ヲ附シ其他変更ヲ加ヘテ之ヲ承諾シタルトキハ其申込ノ拒絶ト共ニ新ナル申込ヲ為シタルモノト看做ス | 第19条 | (1)承諾の形をとっているが,付加,制限その他の変更を含んでいる申込に対する回答は,申込の拒絶であり,反対申込となる。 |
沈黙原則 | 申込の相手方が,何もしない,異議を述べないからといってそれが承諾とみなされることはない。 | 第526条2項 | (2)申込者ノ意思表示又ハ取引上ノ慣習ニ依リ承諾ノ通知ヲ必要トセサル場合ニ於テハ契約ハ承諾ノ意思表示ト認ムヘキ事実アリタル時ニ成立ス | 第18条 | (1)申込に同意する旨を示す被申込者の陳述その他の行為は,承諾とする。沈黙又は反応のないことは,それだけでは承諾とみなされることはない。 |
信義則の適用 → CISG第18条1項と第19条2項との矛盾の解消 | 申込に対して,被申込者が変更を加えた承諾をしたが,その変更が些細なものであり,実質的な変更をもたらさない場合には,申込者がそれに直ちに異議を述べない場合には,信義則の適用により,その沈黙は,反対申込に対する承諾とみなされる。 | 第1条 | (2) 権利ノ行使及ヒ義務ノ履行ハ信義ニ従ヒ誠実ニ之ヲ為スコトヲ要ス | Article 7 | (1)この条約の解釈にあたっては,その国際的性格並びにその適用における統一及び国際貿易における信義の遵守を促進する必要性が顧慮されるべきものとする。 |
修正された鏡像原則 | 申込に対する承諾に変更が加えられていても,それが,申込の内容を実質的に変更するものではなく,かつ,申込者が,その承諾に対して,直ちに異議を述べない場合には,契約は,変更を加えた承諾の内容でもって成立する。 | 第528条 [第2項の追加修正案] |
(2)しかしながら,承諾の形をとった申込に対する回答が,付加的条件や異なった条件を含んでいても,申込の内容を実質的に変更するものでない場合には,申込者が不当に遅滞することなくその相違に口頭で異議を述べ又はその旨の通知を発しない限り承諾となる。申込者が異議を述べない場合には,信義則の原則(民法1条2項)の適用により,変更を加えた承諾である新たな申込は,承諾されたものとみなし,契約の内容は申込の内容に承諾中に含まれた修正を加えたものとする。 | (2)しかしながら,承諾の形をとった申込に対する回答が,付加的条件や異なった条件を含んでいても,申込の内容を実質的に変更するものでない場合には,申込者が不当に遅滞することなくその相違に口頭で異議を述べ又はその旨の通知を発しない限り承諾となる。申込者が異議を述べない場合には,契約の内容は申込の内容に承諾中に含まれた修正を加えたものとする。 |
わが国においても,信義則の法理は,権利・義務の行使に関するすべての条文に関して,強行法規として作用することが認められているのであるから,「被申込者の変更を加えた承諾が,実質的には,申込の内容を変更しないのに,申込者がそれに遅滞なく異議を述べることを怠っている」という場合,すなわち,「変更を加えた承諾=反対申込が実質的には申込の内容を変更するものではないのに,申込者がその反対申込に対して遅滞なく異議を述べない」という場合には,信義則の適用により,申込者の反対申込に対する沈黙は,反対申込に対する承諾とみなされると解することが可能である。
鏡像原則 | 民法528条 | CISG19条 | |
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原則の修正と信義則の適用による 共通理解の実現 |
通常の場合 | 変更を加えた承諾は,申込拒絶と反対申込であって,承諾とはならない。 | |
些細な変更かつ被申込者の異議がない場合 | 変更を加えた承諾は,申込拒絶と反対申込であって,承諾とはならない。 | 変更を加えた承諾は,承諾として効力を有する | |
信義則の適用による統合 | 実質的な変更がない反対申込について,異議を述べない場合は,信義則の適用により,反対申込に対する承諾とみなされる。 |
つまり,新たな観点(反対申込に対する沈黙は,一定の場合には,信義則の適用により,承諾とみなされる)の発見によって,これまで,非連続と思われていた,民法528条とCISG19条2項とが,信義則の適用を解して,連続したものと解することが可能となったのである。このことは,日本民法の新しい理論の創造を促進することになると思われる。
先に述べたように,創造とは,既存の要素の新しい組み合わせに過ぎない。そして,既存の要素の新しい組み合わせは,たとえ,その当時の評価基準では,高く評価されないとしても,それらが,自然淘汰されない限り,予期せぬ環境の変化に対応できる可能性をもつ多様性として,創造性を否定されるべきではない。このような多様性を認める観点からは,創造性を,「新規性」,「高度性」,「有用性」のすべてを満たすものに限定するという創造性の定義は適切でないと思われる。
しかし,創造教育を評価する観点からは,学生たちが,創造的な思考力を身につけたかどうかを評価する観点から,新規性,高度性,有用性を法創造教育の評価項目として採用し,それらを総合的に勘案して,創造教育を評価することには,問題はないと思われる。
上に述べた比較表の作成を通じた創造教育は,縦軸と横軸という少なくとも2つの観点から,従来の思考方法を見直すことを通じて,従来の思考方法に対する理解を深めることから出発する。
したがって,この教育方法は,従来の思考方法に対する深い理解から出発する点で,ゼロから出発して,ランダムに新しい組み合わせを発見しようとする方法とは異なり,従来の思考方法との連続性,すなわち,「有用性」が確保される。また,従来の思考方法に抜け落ちている点があれば,比較表を作成する過程を通じて,その点が容易に発見されるので,「新規性」を確保することが容易となる。さらに,比較表の項目を追加して,さまざまな観点から対象を比較することを通じて,それぞれの対象の共通点と相違点を明確にすることができ,そこから,さらに,それぞれの相違点を統合する新たな観点を発見することが容易となるため,従来の思考方法を前提とする思考方法に比較して,思考方法の「高度性」を高めることができる。
このように,比較表の作成を通じた創造教育は,「新規性」,「高度性」,「有用性」のいずれの点をとっても,従来の教育よりも,学生の創造的な思考能力を高めるものであるといえよう。
もっとも,このような教育方法が有効かどうかは,従来の教育方法と並行して実施してみて,それらの成果を比較検討してみる以外に,厳密な評価を行うことはできない。
教育評価に関しては,その重要性が明確に認識されているにもかかわららず,[改革審・意見書(2001)]においても,教育評価の方法に関しては,以下のような抽象的な指摘を行うにとどまっている。
法科大学院では、その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7〜8割)の者が後述する新司法試験に合格できるよう、充実した教育を行うべきである。厳格な成績評価及び修了認定については、それらの実効性を担保する仕組みを具体的に講じるべきである。
筆者は,教育学者の協力を得て,公平な教育評価の方法確立することを含めた教育実験を開始しており,すでに,教育評価のシステムの開発を開始している。紙幅の関係で,その問題については,別に論じるほかないが,そのような教育実験を繰り返しながら,教育方法の改善を行うことが次の課題である。
わが国においては,教育は理論の他動的教授によってのみ与えられると考えられてきた。そのため,学生は,講義に出てノートをとり,試験の前に復習するという受動的な学習に終始するのみで,予習をする学生はごく一部に限られてきた。しかし,司法改革の一環としてわが国において創設される法科大学院においては,法律家が考えるのと同じように考えることのできる法曹を養成するため,以下のような教育目標が設定されることになった。
法科大学院の教育理念
専門的な法知識を確実に習得させるとともに,それを批判的に検討し,また発展させていく創造的な思考力,あるいは,
事実に即して具体的な法的問題を解決していくために必要な法的分析能力や法的議論の能力等を育成する。
このような批判的で「創造的な思考力」を育てるためには,新たな観点でものを見たり,考えたりする能力を育成することが必要である。そのためには,法的知識に関する「長期記憶の創造」という観点に立った,以下のような環境を提供する必要があることを論じた。
最後に掲げた比較表の作成作業が,創造的な思考力を育成するためにいかなる効用を持つかを明らかにするため,例として,ソクラテスの「汝自身を知れ」とゲーテの「外国語を知らない者は,自国語についても何も知らない」という命題を比較しながら,どのような戦略を用いると有意義な比較表を作成できるか,また,比較表を展開する過程でどのような命題を創造できるかを考察した。
さらに,契約の成立に関する「鏡像原則(Mirror Image Rule)」を例として取り上げる。そして,鏡像原則に関する日本民法とCISGの条文を比較表を作成してみる。そして,このような比較表によって,日本民法とCISGとの共通点と相違点とを明らかにすることが容易となること,CISGにおける19条2項と18条1項とを比較することによって,CISG内部の矛盾を発見することができること,さらに,それらの矛盾・対立を調整するものとして,CISG7条1項の信義則の役割を発見することを通じて,わが国の民法においても,CISGと共通の思考方法と共通の結論を共有することが可能となる新しい観点の発見と新しい解釈・立法を創造することができることを示した。
このような創造的な思考方法を育成する教育改革を通じて,わが国においても,批判的で創造力豊かな法曹を養成することが可能となると考える。