2003年3月8日
名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山 茂
従来の法学部の教育目標は,法の一般常識を備えた社会人を養成することであった。これに対して,法科大学院の教育の目標は,有能な法律専門家と同じように考え,同じように行動できる人材を養成することへとシフトされることになった。したがって,法科大学院においては,法律問題に直面した場合に法律専門家はどのように考え,どのように行動するのかを科学的に分析し,それと同じように考え,行動できる人材を育てることのできる教育方法を発見し,実践しなければならない。
これまでの考え方によれば,大学とは,神聖な学問研究の場であり,法律学とは,伝統ある研究テーマについて,または,指導教授が指定し,もしくは,認めた研究テーマについて,主として外国法との比較において研究することであり,教育とは,研究者が研究した成果を学生に教授することだったといえよう。大学での研究は,あくまで,新しい理論の創造のための研究であり,教育についても,講義は別にしても,研究指導は,法曹養成ではなく,主として研究者の養成を狙って行なわれてきたのである。
確かに,大学における法学教育は,基本法の理解を中心に据えるべきである。しかし,基本法を理解させるためには,常に,最前線の応用問題を提示しながら基礎の理解を深めるべきである。最前線の応用問題に接して初めて,そのような問題は,特別法を駆使しても,うまく解決できるとは限らないのであり,特別法に対する理解を深めた上で,なおかつ,特別法の基礎に流れる基本法の考え方が有用であることが示されるからである。
法的なものの考え方とは,事実を見る観点として,要件と効果の組み合わせによるルール,または,法格言的な原則を採用し,それらのルールや原則をうまく組み合わせたり,拡張,縮小,類推等の解釈技術を駆使して,問題の解決案を提示する方法論にほかならない。
法律家の思考においては,ルールから事実を発見するプロセスと, 発見された事実から,より適切なルールを再発見するというプロセスとが 相互に影響を与えつつ,妥当な解決策が発見されまで繰り返される。 |
英米法流の具体的問題をルールを参照しつつケースバイケースで判断するという考え方も,大陸法流のルールを重視して普遍的な思考をめざす考え方も,それらが,事実を見る観点として作用し,問題解決のよりどころとされる点では同じである。両者の違いは,前者が問題の決め手として,事実が法律要件に該当するかどうかという方法(包摂)を採用するのに対して,後者は,似ているか似ていないかを判断した上で,事実が先例に似ている場合には先例を生かし,似ていない場合には新たな法理を創造するという方法(先例拘束と法の創造)を採用する点にある。
しかし,法律専門家の思考をさらに詳しく分析すると,法律家は,上に述べたように,数少ないルールに基づいて膨大な事実の中から重要な事実を発見するという側面のほかに,新しい問題に遭遇した場合に,その問題の解決に最も適切なルールを発見したり,適切なルールが存在しない場合には,これまでのルールを変更したり,全く新しいルールを創造するという側面を持っていることが分かる。
例えば,社会の進展等により,これまでのルールや法原則ではうまい解決案が提示できなくなると,新しい観点が模索され,新しい観点が発見されると,その観点に基づくルール(仮説)が提示される。そして,新しいルールが従来のルールよりも柔軟で具体的妥当な解決が説得的に示されると,裁判官それに従って判例を変更し,また,立法者は法律を制定するという過程を通じて,パラダイムの変革が行なわれることになる。
司法制度改革審議会の「意見書−21世紀の日本を支える司法制度」(平成13年6月12日)においても,法曹教育のあり方については,以下のような基本的理念が掲げられている。
専門的な法知識を確実に習得させるとともに,それを批判的に検討し,また発展させていく創造的な思考力,あるいは事実に即して具体的な法的問題を解決していくために必要な法的分析能力や法的議論の能力等を育成する。
このような能力を身につけさせるために,法科大学院では,いかなる教育方法を採用すべきであろうか。
アメリカ合衆国のロー・スクールを見学して第1に感じることは,学生が事前によく勉強していることである。通常の講義においてさえも,ほとんどすべての学生がきちんと予習をし,学生たちが,教師の質問に堂々と答えている。このような風景は,わが国においては,ゼミナールは別として,通常の講義では,ほとんど見ることができないといっても過言ではない。
図書館で予習に励む学生 | 予習の成果を講義で発揮する学生たち |
「ロー・スクールの学生は,なぜ,このように熱心に予習をするのか」という問題を解決することこそが,わが国の法科大学院に課せられた最大の課題である。それにもかかわらず,このような根本的な問題について,具体的な解決策を講じることはおろか,この点について問題意識をもっている教師がほとんどいないということこそが,わが国における法科大学院設置の最大の問題点であろう。
何らかの共同作業を行うためには,その構成員の間に相互理解が存在しなければコミュニケーションが成り立たない。法廷において,裁判官,検察官,弁護士が紛争を解決したり,真理を追求したりする場合にも,法律の専門知識のレベルがほぼ同一でなければ,その目的を達することはおぼつかない。
法曹三者の専門知識と学力のレベルをぼぼ同一に保ち,相互のコミュニケーションが効率的に行われることを実現するための方法としては,法曹三者が同一の教育環境の下にで育成されるという教育システムを採用することが望ましい。法科大学院における教育は,まさに,教育環境における法曹一元を実現するシステムである。
法科大学院の教育においては,教師と学生との共同作業を通じて,学生に対して,法律家と同じような創造的な思考法を身につけるための教育がなされなければならない。そして,その目的を達成するためには,教師と学生との間のコミュニケーションが効率的に行われる環境を作り出す必要がある。それを実現するためには,学生の予習が重要な役割を果たす。
教師が学生を育てる場合に,予習をし,何が問題で,どこがわからないかをあらかじめ理解している学生を相手にするのと,予習をせずに,教師のいうことを聞いてノートをとるだけの学生を相手にするのでは,その教育内容に格段の差が生じる。教育目標を達成するためにも,教師と学生との間のコミュニケーションが不可欠であり,予習には,相互のコミュニケーションを飛躍的に高めるという効用がある。
創造的な思考方法を身につけるというこちは,従来にはない思考方法を発見することである。従来にない思考方法を発見するためには,日々の学習の中に,相対的なものではあっても,創造的な発見のプロセスを組み込む必要がある。
この点,与えられた課題であっても,その答えを教えてもらう前に,それに対して自分の力で答えを発見するプロセスとしての予習は,なにも努力をせずに教えてもらった答えを知ってから復習によってその課題が解けるようになるプロセスとしての復習とは,根本的に異なるプロセスである。
予習は,0から始まって自分の力で,課題の答えを発見しようとする創造的なプロセスである。それに対して,復習は,課題の答えを知ってからそれを導く過程を再現できるようにする受動的なプロセスであり,これによって創造性を育てることはできない。予習によって課題の答えにチャレンジし,講義によって,それを補完するする作業を行う学生と,先に講義を聞き,答えを知ってから,回答のプロセスを習得する学生を比較した場合,たとえ試験の結果は同じだとしても,創造性を育てるという観点から見ると,両者には天と地との違いがある。
もちろん,予習さえすれば,創造性が身につくというわけではない。しかし,予習をして,課題の意味と困難さを知った学生と教師の間には,予習をしない学生とは異なった深い密度のコミュニケーションが成り立ちうるのであり,相互の信頼と尊敬の関係をも確立することができる。そのような環境の下で行われる,ケース研究や演習を通じて,さらなる創造性が育っていくと思われる。
試験でいい成績をとるだけであれば,復習重視の学習の方が効率的かもしれない。しかし,創造性を育てるためであれば,日常的な学習の中で創造を追体験できる予習こそが重視されるべきであると考える。
先に述べた法律家の創造的な思考方法を身に付けさせるためには,以下のような段階を踏んだ教育が必要である。
以上のプロセスを更に詳しく説明すると以下のようになろう。