−法創造教育の観点から−
作成:2006年2月19日
明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂
法科大学院教育において,要件事実教育を行うべきか否かは,法科大学院の教育をどのようなものと考えるか,また,教育内容(カリキュラム)をどのように構成するかを考える上でも,避けて通れない問題である。
法科大学院の教育に関して,司法制度改革審・意見書は,法科大学院は,「実務との架橋を強く意識した教育を行うべきである」としており,これを受けて,多くの法科大学院においても,要件事実教育は,法科大学院の必須科目であるかのように考えているように思われる。
しかし,法科大学院が設立されたのは,国民から最も遠い存在とされてきた司法を「国民の期待に応える司法」,すなわち,「国民にとって,より利用しやすく,分かりやすく,頼りがいのある司法」へと改革するためであった。この点からみると,要件事実教育は,「わかりやすい司法」とは,対極にある,すなわち,国民にとって訴訟をわかりにくくする教育方法である。
後に詳しく論じるが,要件事実教育の究極の目標は,「民事実体法の立体化」であるとされている([加藤(新),細野・要件事実の考え方(2002)2頁参照])。これまでの法教育においては,実体法を平面的にしか理解できなかったが,要件事実教育においては,民事実体法の理解を立体化し,民事訴訟の攻撃防御の構造に組み立てなおすことになるという[加藤(新),細野・要件事実の考え方(2002)5頁]。
しかし,ここで言われている立体化とは,
それでは,従来の民法教育が平面的であったというのはどのような意味であり,要件事実教育が立体的であるというのはどのような意味なのであろうか。そのことを知るためには,原点に立ち返って考察することが必要である。実体法が平面的であるとの記述がなされるのは,おそらく,[兼子・実体法と訴訟法(1957)53頁]が最初であろう。そこでは,平面的であるとの意味が,以下のように,記述されている。
法規が要件事実を定めるのに、常に一方的に表現するに止め、決して裏表双方から駄目をつめないことも、裁判規範として、必ず一義的に紛争解決の結果を導き出せるようにし、訴訟上の引分け無勝負が絶対に生じないようにする立法者の賢明な配慮としてのみ理解できるものである。それは、決して立法者の粗雑や不精の故ではない。即ち条文は、「善意ならば権利を取得する」と定めるか、「悪意ならば権利を取得しない」と定めるか何れかの表現を用いるので、決して正確を期して両者を同時に用いることはしない。
平面的な論理としては、両者は裏表を成す択一的命題であり、行動規範としてならば、同時に用いて差支えないのみならず、却って行届いた親切を示すものといえよう。例えば、「青信号が出ている場合は通ってもよい。それ以外の場合は通ってはならない」というように。ところが、裁判規範としては前例の場合に、もし裏表から規定しているとすれば、訴訟上善意とも悪意とも確定できない場合は、権利を取得したかどうかは何れにも決められないことになり、紛争の解決を与えられなくなってしまう。
これが一方的な命題ならば、これによって挙証責任の分配の定めが引出せるのであって、その要件が積極的に認定されない限り、その定める権利の取得(又は不取得)を否定すればよいから、要件事実の不明のために法律的解決が不可能に陥ることはないのである。この意味で行動規範としてはどっちでもよいはずの法規の要件の定め方や本文と但書の構造が、裁判規範としては非常に重要な意義をもつものである。
実体法学の考え方と表現 (平面的?) |
要件事実論の考え方と表現 (立体的?) |
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特色 | 全体的か一方的か | 全体を考慮して,裏表双方から駄目をつめる。 | 一方的に表現するに止める。 |
正確を期するか | 論理の正確さを期する。 | 真偽不明の場合にどう判断するかを考えて,一方的な命題とする。 | |
親切か | 行き届いた親切さを示す。 | 親切さを犠牲にして,真偽不明の場合の解決を優先する。 | |
立証責任の分配の定めが引き出せるか | 引き出せない | 引き出せる? | |
例 | 交通法規 | 青信号が出ている場合は通ってもよい。それ以外の場合は通ってはならない | 青信号が出ている場合は通ってもよい。 |
民法93条 | 民法93条(心裡留保) 表意者が真意でないことを知って意思表示をした場合(心裡留保),意思表示の効力は,次の各号のしたがって,その効果を定める。 一 相手方が表意者の真意を知っていた場合,又は,過失によって知らないとき(悪意又は有過失) 意思表示は無効とする ←意思の不存在の原則 二 相手方が表意者の真意を知らず,かつ,知ることができないとき(善意・無過失) 意思表示はその効力を妨げられない ←権利概観法理の適用(例外) |
第93条(心裡留保) 意思表示は,表意者がその真意ではないことを知ってしたとき〔心裡留保〕であっても,そのためにその効力を妨げられない。ただし,相手方が表意者の真意を知り,又は知ることができたときは〔悪意又は有過失〕,その意思表示は,無効とする。 |
今回の民法の現代語化は,要件事実教育を受けた人々によって,推進されたのであるが,文語から口語へと変化した点は,国民にとってわかりやすいが,単なる現代語化だけでなく,条文を要件事実教育の成果を取り入れて変更した部分は,国民にはわかりにくい改悪となっている。
法科大学院は,司法が21世紀の我が国社会において期待される役割を十全に果たすための人的基盤を確立することを目的とし,司法試験,司法修習と連携した基幹的な高度専門教育機関とする。
法科大学院における法曹養成教育の在り方は,理論的教育と実務的教育を架橋するものとして,公平性,開放性,多様性を旨としつつ,以下の基本的理念を統合的に実現するものでなければならない。
ルールの観点から事実を発見する能力,および, 事実に即して具体的な法的問題を解決していくため必要な法的分析能力 |
法科大学院における要件事実教育は,上記の改革審・意見書の方向に沿って,法理論教育を中心としつつ,実務との架橋を強く意識した教育を実施すべきである。ところが,法曹実務教育の典型例とされる司法研修所によって行われてきた要件事実教育は,その理論的支柱となるべき「立証責任」の考え方においても,また,立証責任の分配原理においても,理論的に破綻しており,法理論教育を中心とした法科大学院の教育理念に反するものとなっている。
したがって,法科大学院においては,司法研修所において実施されてきたいわゆる要件事実教育を無批判的に導入すべきではなく,従来の要件事実教育とは,全く異なる観点,すなわち,法科大学院の教育理念に従って,再構築されるべきである。
本稿は,法科大学院における教育理念と,司法研修所で行われてきた要件事実教育とは,両立しないこと,法科大学院における理論と実務との架橋は,従来の要件事実教育とは異なる「新しい要件事実」の考え方に基づいて行われるべきであるということを論じようとするものである。
司法研修所において行われている要件事実教育とは,訴訟において主張立証されるべき事実を,立証責任の分配法則に従い,要件事実,否認,抗弁,再抗弁,再々抗弁,再々々抗弁,…等に分解し,原告が要件事実を,被告がその否認又は抗弁を,次に原告が再抗弁を,…というように,訴訟の攻撃防御方法を実体法の構造に即して展開する方法をマスターさせようとする教育である。そこでの中心概念は,要件事実,否認,抗弁,再抗弁,…であるから,要件事実教育を理解するためには,まず,請求,否認,抗弁の関係を理解することが不可欠となる。
実体法である民法は,私権の発生,変更,消滅のメカニズムを明らかにしている。訴訟法である民事訴訟法は,実体法の権利に基づいて,原告の権利主張(請求)が成り立ちうるかどうかを,原告の攻撃方法(請求),被告の防御方法(否認,抗弁)を通じて明らかにするものである。
訴訟上の請求,否認,抗弁と実体法上の権利との関係は,以下の図によって明らかにすることができる。
図1 訴訟上の攻撃方法と防御方法と実体法上の権利との関係 (Vgl.D. Medicus, Buergerliches Recht, 17, Aufl. 1996, S. 549.) |
[有斐閣・法律学小辞典(2004)]によれば,被告が主張する防御方法のうち,否認と抗弁の差は,以下の点にあるという。
抗弁とは,民事訴訟において,原告の請求を排斥するため,被告が原告の権利主張・事実主張を単に否定・否認するのではなく,自らが証明責任を負う事実による別個の事項を主張すること。
確かに,上記の抗弁の定義は,発生要件と消滅要件の場合には当てはまる。実体法が,存在証明について, 発生(a)∧¬消滅(a)⇔存在(a) という論理に依存しているからである。しかし,障害要件の場合には当てはまらない。なぜなら,発生原因と障害要件とは,単純な肯定と否定の関係にあり,別個の事実ではないからである。
例えば,成立した契約に関して,意思と表示が合致していることが契約の有効要件であることは一般に疑われておらず,また,解除が契約の消滅原因であることも疑われていない。しかし,「錯誤」が契約有効の障害要件なのか,「錯誤がないこと(意思と表示とが一致していること)」が有効要件なのかについては疑いがある。
要件事実教育では,錯誤(意思と表示が合致していること)は,要件事実ではなく,抗弁事実であるとする。しかし,錯誤が「意思の不存在(いわゆる意思欠缺)」の一態様であることは,民法101条からも明らかである。したがって,「意思と表示とが合致していること」が契約の有効要件であるとすれば,錯誤は単にその否定に過ぎない。そうだとすると,上記の抗弁の定義によれば,錯誤は,有効要件の「否定」に過ぎず,「別個の事項」ではないのであるから,「抗弁」ではないことになるはずである。
実体法の理論としては,成立した契約について,意思と表示とが合致していること,すなわち,意思と表示との間に食い違いがないことが契約の有効要件の一つであり,それを欠く場合には,原則として契約は無効となる。つまり,実体法上は,「意思の存在」が契約の有効要件であり,したがって,有効要件の不存在の場合,すなわち,「意思の不存在(いわゆる意思欠缺)」の場合は,契約は無効となるに過ぎない。意思の存在の単なる否定とは異なった「意思の不存在」という別個の事項(抗弁事実)が存在するわけではない。
契約が成立した以上,両当事者間に合意が存在しているのであるから,「意思と表示が一致していること」が法律上推定されており,契約の有効要件の反対事実である「意思と表示とが食い違っていること(意思の不存在)」について,相手方に立証責任が負わされているに過ぎない。
このように考えると,発生要件と障害要件との差は,実体法上は,単に裏表の関係に過ぎず,訴訟法上,立証責任の配分が異なるという違いがあるに過ぎない。したがって,権利発生要件と障害要件とが実体法上区別され,それにしたがって立証責任の配分が定まるという,要件事実教育の発想は,本末転倒であり,完全な誤りであることがわかる。
反対解釈が許される場合,(a)∧(b)→(R) と (a)∧(¬b)→(¬R) とは,論理的には同値。 真偽不明の場合の立証責任の分配が異なるだけである。 |
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意思の存在を表意者が証明 | 意思不存在を相手方が証明 |
上の図1では,請求,否認,抗弁(抗弁の否認を含む)までは出てくるが,再抗弁,再々抗弁,再々々抗弁,…は出てこない。それらは必要であるのだろうか。それが,次の問題である。
訴訟上は,請求,否認,抗弁という3つの概念があれば十分であり,再抗弁という概念は不要である。なぜなら,すべての要件について,立証責任は,原告が負担するか被告が負担するかのいずれかであり,原告が立証責任を負担する請求とその否認,被告が立証責任を負担する抗弁とその否認という概念があれば,それで十分だからである。
再抗弁という概念が必要であるとすれば,それは,実体法上の論理構造の複雑さに基づくものと思われる。しかし,すでに,抗弁のうち,障害要件は,実体法上の根拠が存在しないことが示された。そうだとすると,再抗弁に実体法上の根拠が存在しないことは,障害要件の場合と同様ではないのだろうか。
以下において,この点をさらに検討してみることにしよう。
司法研修所において行われてきた要件事実教育は,本来の要件事実を,基本的には,法律要件分類説(規範説)に従って,「立証責任」という観点から再構成し,これに基づいて事案の解決に法がどのように適用されるかを明らかにしようとするものである。しかし,ここにおいては,実体法上の法律要件が,いわゆる要件事実,抗弁,再抗弁,再々抗弁等,立証責任の分配に従って分断されており,法律要件の全体像を理解するという観点からは,明らかに難解なものとなっている。
そこで,もっともポピュラーな法律辞書(金子宏,新堂幸司,平井宜雄編『法律学小辞典』〔第4版〕有斐閣(2004))にしたがって,再抗弁,再々抗弁とはどのようなものなのかを見てみることにしよう。
抗弁
民事訴訟において,原告の請求を排斥するため,被告が原告の権利主張・事実主張を単に否定・否認するのではなく,自らが証明責任を負う事実による別個の事項を主張すること。防御方法の1つ。
再抗弁
民事訴訟上,被告の提出する実体上の抗弁に対して,原告がそれによる法律効果の発生を妨げあるいはその消滅をもたらす事実を主張すること。再抗弁事実の証明責任は原告にある。例えば,消滅時効の抗弁に対する時効中断事由の主張は再抗弁である。
再々抗弁
原告が主張する再抗弁に対し,被告がさらにこれを争うために提出する抗弁。再々抗弁事実については被告が証明責任を負う。例えば,消滅時効の抗弁についての訴えの提起による時効の中断の再抗弁に対し,訴えの却下又は訴えの取下げの事実の主張は再々抗弁にあたる。
上記の辞書で,再抗弁の代表的な例とされる「時効の中断事由」とは何かを見てみよう。
時効の中断
1 意義 時効の基礎となる事実状態(例:所有者らしい状態,債務が存在しないような状態)と相いれない一定の事実(例:所有者から占有者に対する訴えの提起,債権者の債務者に対する訴えの提起)が生じた場合に,時効期間の進行を中断させること。中断があれば,既に進行した時効期間は全く効力を失い,中断事由の終わった時から新たに時効期間が進行を開始する〔民157〕。
2 中断事由 民法は取得時効と消滅時効に共通の中断事由として,以下のものを定めている〔民147〕。これを法定中断という。1. の請求には,裁判上の請求(訴えの提起)〔民149〕,支払督促〔民150〕,和解のための呼出し又は任意出頭〔民151〕,破産手続参加〔民152〕,催告〔民153〕が認められているが,これらは判決又は判決と同一の効力が与えられる事由によって〔民訴396・267,破242〕,その効力が確定しなければ,中断の効力が生じないことに注意を要する。時効中断は当事者及びその承継人の間においてのみその効力をもつ〔民148〕。なお,取得時効に特有の中断事由(これを自然中断という)として占有の喪失がある〔民164〕。
- 請求〔民149〜153〕
- 差押え・仮差押え又は仮処分〔民154・155〕
- 承認〔民156〕
代表的な法律辞書にあげられている「再抗弁」としての「時効の中断事由」は,一見,請求とも抗弁とも違う,「再抗弁」という独自の事実であるかのように見えるが,詳しく見てみると,実は,請求(訴えの提起,およびこれに類するもの)又は,承認(請求の承認)であり,内容的には,請求原因事実の主張,または,その承認と同じとなっていることがわかる。
貸金返還請求における否認,抗弁,再抗弁の分類とその問題点 原告の請求
(訴訟物)被告の防御方法 原告の攻撃方法 否認 抗弁 再抗弁(原告) 契約不成立に基づく,貸金返還請求権の発生原因の否定 貸金返還請求権の消滅の抗弁 貸金返還の請求
(再抗弁とは請求のこと?)貸金返還請求 金を借りて返す約束はしたが,まだ,金を貸してもらっていない。 確かに金を借りたが,返還時期からすでに10年を経過しており,時効で消滅している。 金を返せと請求した(債権を行使した)ので,時効は中断しており,時効は完成していない。
このように見てくると,再抗弁(例えば時効の中断事由)と考えられているものを具体的に検討してみると,請求原因の存否(請求)の問題に帰ってくるか,抗弁の否定(債権の不行使)かのいずれかであって,再抗弁という独自の概念があるわけではないのではないかとの根本的な疑問が生じることになる。
なぜ,このような誤りが生じたのかを追及することは,要件事実教育の根本的な誤りを知るためにも必要なことである。そこで,誤りが生じた根源にまで遡って考察することにしよう。
消滅時効と時効の中断に関する民法の条文を見てみよう。まず,消滅時効に関する要件効果を明らかにしている民法167条を見てみる。
第167条(債権等の消滅時効)
@債権は,10年間行使しないときは,消滅する。
A債権又は所有権以外の財産権は,20年間行使しないときは,消滅する。
そうすると,債権の消滅時効に関する民法167条1項は,消滅時効の要件として,債権者が「10年間」,「債権を行使しないこと」をあげていることがわかる。条文を素直に読めば,消滅時効の要件と効果は,以下のような論理として表現することができる。
(1) 10年間(a)∧債権の不行使(b)→債権の消滅(R)
次に,時効の中断を定めた民法147条を見てみよう。
第147条(時効の中断事由)
時効は,次に掲げる事由によって中断する。
一 請求
二 差押え,仮差押え又は仮処分
三 承認
民法147条に掲げられた要件は,1)請求,2)差押え,仮差押え又は仮処分,3)承認となっている。これらの要件は,先に見た民法167条との比較において考察すると,民法167条に掲げられた時効の要件である「10年間債権を行使しないこと」の反対概念である「10年内に債権を行使していること」であることが明らかである。そして,債権の行使の方法として,以下のような3つの類型が示されていることがわかる。
このように考えると,民法147条は,つまるところ,債権の消滅時効に関して,中断事由,すなわち,債権者が債権を行使した事実があるときは,消滅時効の効果は発生しないことを明らかにしているに過ぎないことがわかる。つまり,時効の中断事由=債権者による債権の行使とは,論理的には同値である。したがって,民法147条の論理を表現すると以下のようになる。
(2) 10年間(a)∧時効中断事由(債権の行使(¬b))→債権の不消滅(¬R)
以上の考察を通じて,時効の中断事由とは,債権者による債権の行使,すなわち,請求(詳しくいうと,請求を確保するための手段である,請求そのもの,請求を確保するための訴訟上の請求,保全手続き,請求に対する債務者の承認)を裏から表現したものに過ぎないことが明らかにされた。
[司法研修所・要件事実〔第1巻〕8-9頁]も,以下に示すように,このことを認めている。
債権の時効消滅について,民法167条1項は,「十年間之ヲ行ハサルニ因リテ」と規定するが,この文言及び条文の形式からみれば,当該債権の10年間の不行使も右消滅の効果の発生要件事実となるべきもののように読める。ところが,民法147条以下の法条によれば,右10年間に当該債権に基づく請求をするなどの債権の行使は,消滅時効の中断事由とされるから,当該債権の不行使が時効消滅の要件事実ではなく,反対事実すなわち右債権の行使が時効消滅の効果の発生障害の要件事実であるとも考えられる。
しかし,債務者が右不行使について,また,債権者が右行使について,それぞれ立証責任を負うというような,論理的に相反する二つの事実のいずれにも立証責任を認める考え方は,立証責任の本質に反し,許されない。不行使,行使のいずれか一方の事実のみが要件事実であってこれについて立証責任が存在すると考えるべきである。
それでは,要件事実教育は,どこをどう間違えたのであろうか。それは,抗弁とは,「原告の権利主張・事実主張を単に否定するのではなく,自らが証明責任を負う事実による別個の事項を主張するものである」という点を忘れてしまっている点にある。もしも,司法研修所の見解のように,時効の中断事由が,消滅時効の要件である民法167条1項の「債権の不行使」の反対事実であるとするならば,それは,単なる消滅時効の要件(債権の不行使)の否定であって,「別個の事実たる抗弁」とはなりえないはずなのである。
反対解釈が許される通常の場合,(1)式(a)∧(b)→Rは,当然に,(¬b)→(¬R)が推論されるのであるから,債権を行使することと時効中断事由とは,表と裏の関係にあり,独立した事象ではありえない。つまり,請求と時効中断とは,肯定と否定の関係にあるのであるから,貸金請求に対する時効中断の主張は,債権の行使の主張と同値であり,再抗弁という別の概念が存在するわけではない。
実体法上は,債権の不行使と時効中断の事由とは,肯定と否定の関係にあるに過ぎない。問題は,実体法上の問題ではなく,訴訟において,めったに起こらないが,万が一,真偽不明の状況が生じた場合に,証明責任の分配をどのようにするのかが問題となるだけである。
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債権の不行使を債務者が証明 | 債権の行使を債権者が証明 |
実体法の論理としては,債権者が10年間,債権を行使しない場合には,その債権は時効によって消滅する。しかし,債権者が,10年間の間に,債権を行使した場合(時効の中断事由がある場合)には,その債権は時効によって消滅しないということであり,債権の行使・不行使以外に,時効中断事由という独立の概念(再抗弁)が存在するわけではない。つまり,筆者の見解によれば,ここでの問題の本質は以下のように整理することができる。
消滅時効の法律要件のうち,10年間については,債務者に立証責任を負担させ,債権の不行使については,その反対事実(債権の行使=時効中断事由)を債権者に立証責任を負担させ,両者の衡平を図っているに過ぎない。したがって,債権の消滅時効の法律要件である「10年間の債権の不行使」をわざわざ2つに分断し,「10年間の経過」のみが要件事実であって,「債権の不行使」の反対事実である「債権の行使(中断事由)」を時効消滅の障害事由であるという必要性は存在しない。
民法が,債権の消滅時効の法律要件として「10年間」+「債権の不行使」を規定した上で,「債権の行使」に関する時効の中断事由を別途定めているのは,債務者の主張責任として「10年間」+「債権の不行使」を規定するとともに,立証責任としては,「債権の行使」を債権者に証明させようとしたものと理解することが可能であろう。
ところが,要件事実教育の基本的な教科書である[司法研修所・要件事実〔第1巻〕9頁]は,この点を以下のように述べている。
消滅時効については,民法147条以下に規定するような債権の行使が消滅時効の効果の発生障害の要件事実(時効の中断事由)であり,時効期間中の債権の不行使は時効消滅の要件事実とはならないと解釈し〔ている〕。
しかし,民法167条の規定からも明らかなように,債権の消滅時効の「実体法上の要件」は,あくあで,「10年間」の「債権の不行使」である。司法研修所の教育において,「債権の不行使は,消滅時効の要件事実とはならない」とされるのは,明らかに民法の文言に反している。そればかりではない。消滅時効の要件事実が「10年間の経過」だけであるといわなければならないのだとしたら,そのような教育は,実体法の法理を無視しており,実体法の素直な理解を妨げる有害な教育といわざるを得ないであろう。
ここにおいても,訴訟上めったに起こらない真偽不明の場合を訴訟のバックボーンであると過大評価し,立証責任の分配を重視する余り,実体法の要件である「10年間の債権の不行使」という実体法の要件を分断し,消滅時効の要件事実は,「期間の経過」のみであり,「債権の不行使は,消滅時効の要件事実とはならない」というのは,滑稽ですらある(要件事実教育の根本的な誤り・その3)。
何度も述べたように,債権の消滅時効の実体法の要件は,あくまで,「10年間の債権の不行使」である。この法律要件のうち,証明の衡平さという観点から,「10年間の経過」については債務者に立証責任が負わされ,債権の不行使の反対事実である「債権の行使(時効中断事由)」については債権者に立証責任が負わされているに過ぎない。時効中断事由は「再抗弁」だから,債権者が立証責任を負担するというのは,まさに,本末転倒した議論であって,証明責任を決めた後に,「債権の不行使」が抗弁か「債権の行使」が再抗弁かを論じているに過ぎない。訴訟上は,法律要件(10年間+債権の不行使)のうち,債権の不行使についてのみ,反対事実の証明責任が債権者へと分配されている(証明責任の転換)に過ぎないのであって,そもそも再抗弁という概念は必要ではない。つまり,時効中断事由が再抗弁事由であるという根拠は,実体法上も訴訟法上も存在しない。
時効の中断事由を例にとって詳しく論じたように,また,後に,「錯誤」の問題を取り扱うとわかるように,再抗弁という概念は,訴訟上は,抗弁の否認の誤りか,請求への復帰のいずれかであり,実体法上も正当化できない。
さらに,抗弁,再抗弁,再々抗弁,…という訴訟構造としてよくあげられる事例としては,そのほかに,所有権に基づく土地の返還請求訴訟があるが,この場合において,抗弁として現れるのが,賃貸借の「契約成立の抗弁」である。そして,賃貸借解除の再抗弁,借地法上の黙示の更新があるとの再々抗弁,借地法上の一時使用に当たるとの再再々抗弁…という展開を見せていくのであるが,これまた,「ためにする議論」としか思えない。
というのは,民法の条文が大切であり,条文の表現構造によって,要件事実,抗弁,再抗弁,再々抗弁に分類されるという規範説の出発点に照らしてみても,契約の解消に基づく賃借物の返還請求の問題について,わが国の条文にない物権的請求権を訴訟物として構成し,条文がないにもかかわらず,立証責任の配分を論じるのは大胆に過ぎよう。さらに,争点が,賃貸借の解除に基づく債権的請求権の存否の問題であり,賃貸借の存在とその終了に基づく返還請求権という条文上の根拠(民法616条による598条の準用に基づく明け渡し請求権)がある問題にもかかわらず,わざわざ,条文に根拠がなく,賃貸借契約の下では,当然に消滅すると思われる物権的請求権を最後まで残しておいて,再抗弁,再々抗弁,…とわざとらしく論じるのは,滑稽というほかない。条文上の根拠をもたない物権的請求権と明文の規定がある契約上の請求権が競合する場合には,訴訟物の決定に際して,当事者の意思すべてを委ねるべきではなく,契約上の請求権が優先的に適用されるべきであって,物権的請求権を訴訟物とすべきではないからである。
ここですべてを論じることはできないが,このように,代表的といわれる問題を取り上げただけでも,請求原因,抗弁,再抗弁,再々抗弁という構造を重視する要件事実教育が,理論的に破綻していることがわかる。
その根本原因は,訴訟物に関して,実体法の条文に依存する旧訴訟物理論に依拠している点,および,立証責任の分配法則を,これまた,実体法である民法の条文,判例の表面的な構造(本文とただし書き)に依拠し過ぎている点に求められる。
訴訟物理論にしても,また,証明責任の分配にしても,実体法に依存し過ぎるのは,訴訟法学の自立にとっても,また,実体法の自由な発展にとっても有害である。訴訟法学は,誤った実体法依存の法理(旧訴訟物理論,法律要件分類説)から徐々に脱却する必要があると思われる。それと同時に,むしろ,それにもまして,実務を経験したことのない実体法学者が,妙なコンプレックスから,要件事実教育におもねたり,妥協するという態度を改め,要件事実教育の誤りを徹底的に批判することが,より重要であると思われる。
要件事実教育の根本的な誤りの一つとして,すでに,この問題を何度も取り上げている。そこで,ここでは,理論的な問題として,障害規定は実体法上は存在しないこと,それにもかかわらず,障害規定が重要な役割を演じている要件事実教育の有害性を再度確認するにとどめる。
法律要件分類説(規範説)によれば,挙証責任の分配は,実体法規範を分析し,発生規定,発生障害規定,消滅規定,消滅障害規定とを区別することによって一義的に決定しうるという。
ローゼンベルク[ローゼンベルク・証明責任論(1972)23頁]は,10年間の取得時効の規定(「10年間(a)の自主占有(b)で時効取得する。ただし,悪意占有(¬c)の場合には,この限りでない。」)は,実体法の分析によって以下のように分類できるとしている。
(1)権利発生根拠規定:a∧b⇒R
(2)権利発生障害規定:¬c⇒¬R
このような分類に基づいて,すべての法律要件は,原告が証明すべき主要事実,被告が証明すべき抗弁,原告が証明すべき再抗弁,被告が証明すべき再々抗弁,…というように,構造的に分類することができる。
私法における実体法の規範は,権利・義務の発生,変更,消滅を扱うものであるから,その規範を発生規範,消滅規範に分類することは可能である。しかし,発生規範と発生障害規範との区別は,証明責任がどちらにあるかが決定された後に決まる問題であって,実体法の規範の分析からは導き得ないものである。
例えば,Rosenbergが挙げた例は,実は,以下のような論理式で表現できる。
(1)権利発生規定:a∧b∧c⇒R
(2)証明責任規定:b⇒cが法律上推定される
わが国の民法は,左のようなドイツ民法の表現形式とは異なり,上のような表現形式を採用している。Rosenbergは,このような日本民法の規定は,立法の過誤だと非難するが[ローゼンベルク・証明責任論(1972)237頁],お門違いも甚だしいといわなければならない。
結論があって始めて区別できることを,あたかも,実体法の規範の構造分析によって区別できるとした点に,規範説のごまかしと,それを長年にわたって法曹に信じさせた点に規範説の罪の深さがある。
このようにして,権利障害要件という概念は実体法の誤った解釈から導かれた概念であり,訴訟法上も実体法上も正当化できない。
要件事実教育の最大の弊害は,最近の民法の起草者が,実体法の改正をするに際して,立証責任のルールが実体法の条文構造を通じて,明確に規定できると信じ込むに至っている点にある。
従来は,実体法である民法は,立証責任のルールとは,無関係に,実体法上の論理にしたがって,原則と例外を,例えば,本文とただし書きとによって表現していたに過ぎず,本文とただし書きが存在するからといって,それによって立証責任の分配がなされているとは限らないということが可能であった。そして,そのことは,実体法の条文構造には左右されない,衡平な立証責任の分配を裁判所が解釈を通じて確立していく道を保証していた。
ところが,要件事実教育の影響を受けた法曹が多くなるにしたがって,立証責任の分配は,実体法の条文構造によって決定されると信じる人々が増加し,挙句の果ては,民法の改正を起草する担当者までが,民法の改正に際して,民法の条文は,立証責任の分配を考慮して文言を整理しなければならないと考え始めている点にある。
今回の民法現代語化は,現代語化という名目の下で,さまざまな誤った改悪を行っているが,その最たるものは,立証責任の配分を立法者が明確に意識し,本来,裁判官の自由な解釈に委ねられるべき立証責任の配分を,裁判官ではない立法者が事前に決定し,これに裁判官を従わせるべきであると考え,その考えにしたがって,民法の条文構造を変更した点にある。
これが,民法の現代語化を著しく逸脱するものであることは明らかであり,今回の現代語かは,後世に大きな禍根を残すものとなっているといえよう。
今回の民法現代語化によって生じている立法担当者の混乱ぶりは,以下の条文を対比することによって明らかとなる。
実体法の法理 | 条文 | 旧条文 | 現行法(現代語化) | |||
---|---|---|---|---|---|---|
条文 | 善意・無過失の立証 | 条文 | 善意・無過失の立証 | |||
権利概観法理 | 表見代理 | 民法109条 | 第109条〔代理権授与表示による表見代理〕 第三者ニ対シテ他人ニ代理権ヲ与ヘタル旨ヲ表示シタル者ハ其代理権ノ範囲内ニ於テ其他人ト第三者トノ間ニ為シタル行為ニ付キ其責ニ任ス |
善意・無過失ともに不問。→判例によって必要とされるに至る。 | 第109条(代理権授与の表示による表見代理) 第三者に対して他人に代理権を与えた旨を表示した者は,その代理権の範囲内においてその他人が第三者との間でした行為について,その責任を負う。ただし,第三者が,その他人が代理権を与えられていないことを知り,又は過失によって知らなかったときは,この限りでない。 |
本人が相手方の悪意又は過失を立証しなければならない。 |
民法110条 | 第110条〔代理権踰越の表見代理〕 代理人カ其権限外ノ行為ヲ為シタル場合ニ於テ第三者カ其権限アリト信スヘキ正当ノ理由ヲ有セシトキハ前条ノ規定ヲ準用ス |
相手方が正当の理由(善意・無過失)を立証しなければならない。 | 第110条(権限外の行為の表見代理) 前条〔代理権授与の表示による表見代理〕本文の規定は,代理人がその権限外の行為をした場合において,第三者が代理人の権限があると信ずべき正当な理由があるときについて準用する。 |
相手方が自らの正当な理由(善意・無過失)を立証しなければならない。 | ||
民法112条 | 第112条〔代理権消滅後の表見代理〕 代理権ノ消滅ハ之ヲ以テ善意ノ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス但第三者カ過失ニ因リテ其事実ヲ知ラサリシトキハ此限ニ在ラス |
相手方が自らの善意,表意者が相手方の過失を立証しなければならない。 | 第112条(代理権消滅後の表見代理) 代理権の消滅は,善意の第三者に対抗することができない。ただし,第三者が過失によってその事実を知らなかったときは,この限りでない。 |
相手方が自らの善意,本人が相手方の過失を立証しなければならない。 | ||
表見弁済受領 | 民法478条 | 第478条〔債権の準占有者への弁済〕 債権ノ準占有者ニ為シタル弁済ハ弁済者ノ善意ナリシトキニ限リ其効力ヲ有ス |
弁済者が善意のみを立証しなければならない。無過失は不問。→判例によって民法478条と同じとされる。 | 第478条(債権の準占有者に対する弁済) 債権の準占有者に対してした弁済は,その弁済をした者が善意であり,かつ,過失がなかったときに限り,その効力を有する。 |
弁済者(相手方)が自らの善意・無過失を立証しなければならない。 →民法110条型 |
|
民法480条 | 第480条〔受取証書持参人への弁済〕 受取証書ノ持参人ハ弁済受領ノ権限アルモノト看做ス但弁済者カ其権限ナキコトヲ知リタルトキ又ハ過失ニ因リテ之ヲ知ラサリシトキハ此限ニ在ラス |
債権者が弁済者の悪意,または,弁済者の過失を証明しなければならない。 | 第480条(受取証書の持参人に対する弁済) 受取証書の持参人は,弁済を受領する権限があるものとみなす。ただし,弁済をした者がその権限がないことを知っていたとき,又は過失によって知らなかったときは,この限りでない。 |
債権者(本人)が弁済者(相手方)の悪意又は過失を立証しなければならない。 →民法109条型 |
民法109条(代理権授与の表示による表見代理)の改正に関して,立法担当者は,以下のように述べている[池田(真)・新民法解説(2005)32-33頁(吉田徹)]。
109条は,他人に代理権を授与した旨表示した者は,その代理権の範囲内において,その他人が第三者との間でした行為について責任を負う旨を規定するものであるが,これまでの条文は第三者の主観的態様については触れるところがなかった。しかし,表見代理の制度は相手方を保護するためのものであり,本条においても,その他人に代理権がないことについて第三者が悪意であるとき又は過失によって知らなかったときに,本人が責任を負わないことについては,判例(最判昭和41・4・22民集20巻4号752頁)・通説として確立していることから,これを条文に明示するものとした。なお,第三者が悪意又は重過失であることについて,本人に立証責任があること(前記判例参照)が条文上も明らかになるよう,ただし書きを付加する構成をとっている。
(批判)表見代理の法律要件に関して,民法112条では,相手方の善意が成立要件,相手方の過失が抗弁事由となって,立証責任の配分がバランスが取れているのに対して,改正後の民法109条では,相手方の善意・無過失がともに成立要件から脱落し,相手方の悪意又は相手方の過失が抗弁事由となってしまっている。このような齟齬が,立証責任を含めて,表見代理の統一的な要件をめざす今回の改正の目的が達成されていないことは明らかである。
民法478条(債権の準占有者に対する弁済)の改正に関して,立法担当者は,以下のように述べている[池田(真)・新民法解説(2005)35頁(吉田徹)]。
478条は,債権の準占有者(自己のためにする意思をもって債権の行使をする者)じ対する弁済が有効となる場合について規定するものであるが,これまでの条文では,その要件として弁済者が善意であることのみを掲げており,その過失の有無についての言及がなかった。しかし,本条は,債権者としての外観を信頼して弁済した者を保護する趣旨の規定であるところ,弁済者に過失のある場合にまで真実の権利者の犠牲において弁済者を保護することは行き過ぎであるとして,弁済者が無過失であることを弁済の有効要件とするのが判例(最判昭和37・8・21民集16巻9号1809頁)・通説として確立した解釈であることから,その旨を条文でも明示することにしたものである。なお,無過失であることは,弁済が有効であるための積極要件であり,一般に,債権の消滅を主張する弁済者・債務者の側に立証責任があると解されていることから,本条においても,こうした解釈に即して,無過失を善意と並ぶ要件として併記しているものである。
(批判)表見弁済受領者に関する民法478条の改正は,同様の規定である民法480条との対比において,弁済者に過酷な立証責任を課するものであり,表見弁済受領者に対する弁済の効力に関して,用語の統一の延長上において,判例・学説によって指摘されてきた要件の統一をめざすという目的を損なうものであることは明らかである。
これは,ほんの一例にしか過ぎない。今回の民法の現代語化において,要件事実教育を受けた立法担当者による民法の改悪は,目に余るものがある。
法科大学院においては,このような要件事実教育の弊害を防止するためにも,要件事実教育ではなく,その弊害がいかに大きいかを徹底的に検討し,それを法科大学院の教育の中で実施しなければならないと考える。
要件事実教育の弊害は,まず,裁判官の自由な思考過程を妨げることにり,さらに進んで,立法担当者が,実体法の改正の過程で,裁判官の自由な思考過程を妨げる立法を行う点にあることを論じた。
ここでは,要件事実教育の弊害のうち,実体法の理論の発展を妨げる点に焦点を当てて論じることにする。
要件事実
実体法に規定された法律効果の発生要件(構成要件)に該当する具体的事実をいう。一般に主要事実(直接事実)と同様の意味で用いられ,間接事実(事情)と対比されるが,要件事実は法規の要件そのままの抽象的事実であるとして,具体的事実である主要事実と区別する見解もある。要件事実の理解・把握は,主張責任及び証明責任の分配を考える前提として重要であり,司法修習生の〔要件事実〕教育においても重視されている。
司法研修所
最高裁判所に附置され,裁判官その他の裁判所職員の研究及び修養並びに司法修習生の修習に関する事務を取り扱う機関〔裁14〕。事務職員のほか,前述の研究,修養及び修習を指導するために司法研修所教官が配置される〔裁55〕。
要件事実教育においては,実体法上の法律要件が,いわゆる要件事実,抗弁,再抗弁,再々抗弁等,立証責任の分配に従って分断されており,法律要件の全体像を理解するという観点からは,明らかに難解なものとなっている。
ところが,要件事実教育に携わる人たちによると,実体法学者が通常行っているような実体法の論理を裏表から総合的に論じることは,「平面的な論理」に過ぎないという。むしろ,紛争当事者の攻撃防禦に対応させて,表か裏のどちらか一方のみから表現する,一方的な命題を通じてこそ,実体法を立体的に理解することができるようになるという。
例えば,民法93条を例にとって,要件事実教育が以下に実体法の教育をゆがめているかを検討してみよう。
第93条(心裡留保)
意思表示は,表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても,そのためにその効力を妨げられない。ただし,相手方が表意者の真意を知り,又は知ることができたときは,その意思表示は,無効とする。
民法93条(心裡留保)
表意者が真意でないことを知りつつ意思表示(心裡留保)をした場合,意思表示の効力は,次の各号のしたがって,その効果を定める。
一 相手方が表意者の真意を知らず,かつ,知ることができないとき(善意・無過失) 意思表示はその効力を妨げられない ←権利概観法理の適用(原則)
二 相手方が表意者の真意を知っていた場合,又は,過失によって知らないとき(悪意又は有過失) 意思表示は無効とする ←意思の不存在の原則(例外)
規範説に基づいて条文を構成する場合,以下の3通りがありうる。そのうち,どちらにするかは,簡単には決定できない。
上記の3つの分配方法のうち,どれを採用するかは,いずれに立証責任を負わせる方が,真実発見に役立つか等,訴訟法上の考慮に従って決定される法政策的な問題であり,事実が明らかになっていることを前提にして要件と効果との関係を論じつ実体法の理論とは無関係である。
もしも,実体法の理論が,そのような問題をも解決しなければならないとしたら,実体法の立法を行う際に意は,まず,立証責任を決定しなければならないことになり,実体法の自由な発展も,また,立証責任の自由な解釈も阻害されてしまう。
規範説をとる兼子説(兼子一『実体法と訴訟法』有斐閣(1957)53頁)によれば,「青信号が出ている場合は通ってもよい」という論理は正しいが,「青信号の場合は通ってもよい。青信号以外の場合は通ってはならない」〔歩行者用の信号の場合で,信号の種類は青信号と赤信号との2種類のみと仮定する〕とされる。そして,現在の要件事実教育では,法律効果の肯定と否定とを裏表の要件を尽くしてすべて論じるという論理は,実体法学者がよく陥る,挙証責任を考慮しない「平面的な論理」であり,裁判規範としては誤った論理であるという考え方が,今なお,確実に踏襲されている。
兼子一『実体法と訴訟法』有斐閣(1957)53頁 |
なお,信号機に関する法令(道路交通法施行令)においては,兼子説とは異なり,以下のように,いわゆる親切な条文が採用されている。
道路交通法施行令 第2条(信号の意味等)
@法第4条第4項に規定する信号機の表示する信号の種類及び意味は,次の表に掲げるとおりとし,同表の下欄に掲げる信号の意味は,それぞれ同表の上欄に掲げる信号を表示する信号機に対面する交通について表示されるものとする。
信号の種類 | 信号の意味 |
青色の灯火 | 一 歩行者は,進行することができること。 二 自動車,原動機付自転車(右折につき原動機付自転車が法第三十四条第五項本文の規定によることとされる交差点を通行する原動機付自転車(以下この表において「多通行帯道路等通行原動機付自転車」という。)を除く。),トロリーバス及び路面電車は直進し,左折し,又は右折することができること。 三 多通行帯道路等通行原動機付自転車及び軽車両は,直進(右折しようとして右折する地点まで直進し,その地点において右折することを含む。)し,又は左折することができること。 |
黄色の灯火 | 一 歩行者は,道路の横断を始めてはならず,また,道路を横断している歩行者は,すみやかに,その横断を終わるか,又は横断をやめて引き返さなければならないこと。 二 車両及び路面電車(以下この表において「車両等」という。)は,停止位置をこえて進行してはならないこと。ただし,黄色の灯火の信号が表示された時において当該停止位置に近接しているため安全に停止することができない場合を除く。 |
赤色の灯火 | 一 歩行者は,道路を横断してはならないこと。 二 車両等は,停止位置を越えて進行してはならないこと。 三 交差点において既に左折している車両等は,そのまま進行することができること。 四 交差点において既に右折している車両等(多通行帯道路等通行原動機付自転車及び軽車両を除く。)は,そのまま進行することができること。この場合において,当該車両等は,青色の灯火により進行することができることとされている車両等の進行妨害をしてはならない。 五 交差点において既に右折している多通行帯道路等通行原動機付自転車及び軽車両は,その右折している地点において停止しなければならないこと。 |
人の形の記号を有する青色の灯火 | 歩行者は,進行することができること。 |
人の形の記号を有する青色の灯火の点滅 | 歩行者は,道路の横断を始めてはならず,また,道路を横断している歩行者は,すみやかに,その横断を終わるか,又は横断をやめて引き返さなければならないこと。 |
人の形の記号を有する赤色の灯火 | 歩行者は,道路を横断してはならないこと。 |
青色の灯火の矢印 | 車両は,黄色の灯火又は赤色の灯火の信号にかかわらず,矢印の方向に進行することができること。この場合において,交差点において右折する多通行帯道路等通行原動機付自転車及び軽車両は,直進する多交通帯道路等通行原動機付自転車及び軽車両とみなす。 |
黄色の灯火の矢印 | 路面電車は,黄色の灯火又は赤色の灯火の信号にかかわらず,矢印の方向に進行することができること。 |
黄色の灯火の点滅 | 歩行者及び車両等は,他の交通に注意して進行することができること。 |
赤色の灯火の点滅 | 一 歩行者は,他の交通に注意して進行することができること。 二 車両等は,停止位置において一時停止しなければならないこと。 |
備考 この表において「停止位置」とは,次に掲げる位置(道路標識等による停止線が設けられているときは,その停止線の直前)をいう。 一 交差点(交差点の直近に横断歩道等がある場合においては,その横断歩道等の外側までの道路の部分を含む。以下この表において同じ。)の手前の場所にあっては,交差点の直前 二 交差点以外の場所で横断歩道等又は踏切がある場所にあっては,横断歩道等又は踏切の直前 三 交差点以外の場所で横断歩道,自転車横断帯及び踏切がない場合にあっては,信号機の直前 |
上記のように様々な問題を抱えてはいるが,要件事実論の効用は,実体法の議論が原告・被告に中立的に構成されているのに対して,それを民事訴訟法の攻撃防御の構造に即して再構成しようとしている点にあることは明らかである。
しかし,そうであれば,原告の言い分,被告の言い分に二分して,それらをまとめて考察すべきであった。要件事実論は,出発点は正しいにもかかわらず,目標としての民法の構造的理解の実現に際して,請求原因(原告),抗弁(被告),再抗弁(原告),再々抗弁(被告)…というように,両者の言い分を,幾層にも分断して考察することにしたため,その構成が迷路のような深みにはまり込んでしまい,国民にとって民法をわかりにくくするという弊害に陥っている。
この点に関連して,要件事実論の用語法である抗弁(再抗弁,再々抗弁も同じ)という概念自体の不備についても触れておこう。要件事実論においては,「意思表示に錯誤があること」(不当利得の請求原因)と,表意者に「意思表示において重過失があること」とは,事実として両立し,後者によって無効主張ができなくなるという効果が生じるのであるから,後者は,抗弁であると考えられている([加藤新太郎・要件事実の考え方と実務(2002)34頁参照])。しかし,重過失≒悪意であるとの図式を理解している者にとっては,重過失のある錯誤とは,悪意のある錯誤,すなわち,意思の不存在について悪意がある場合であり,適用条文の異なる心裡留保に近いものとして理解されるはずである。そもそも,錯誤は,民法上は,表意者が善意であることを前提としているのであり,重過失を悪意と同列に扱う民法の立場からすると,「重過失による錯誤」とは,「悪意のある錯誤」と同列に扱われることになる。しかし,「悪意のある錯誤」とは,概念矛盾であり,心裡留保と同じと考えるべきであろう。そうだとすると,「意思表示に錯誤があること」と「意思表示において表意者に重過失(悪意)があること」とは,排反事象であり,両立するはずがないといわなければならない。そうだとすると,重過失のある錯誤とは,錯誤の否定(相手方が主張・立証責任を負うため,いわゆる否認ではない。しかし,他方で,錯誤と両立しえない事象という意味では否認である)に他ならず,「両立しうる他の事実」としての抗弁ではありえない。ところが,要件事実論を推進する人々は,このような矛盾に全く気づいていない。
要件事実論のよいところを吸収しようとするならば,事案の整理を原告に有利な事実と不利な事実,有利な理論,不利な理論に分解し,原告の立場に立って,徹底した有利な理論を展開する,その後,立場を被告に変え,徹底的に被告に有利な理論を展開することを試みるべきである。そして,その後に,両者の立論を比較検討し,議論を通じて,妥当な結論を導くべきである。その方法の概略を,設例に即して概観しておくことにしよう。
たとえば,司法研修所の教官が執筆した現在の教科書においても,以下のように,錯誤無効の要件事実に「表意者の重大な過失のないこと」を含めるのは,実体法学者のよく陥る誤りである旨の指摘がなされている[加藤(新),細野・要件事実の考え方(2002)29頁]。
錯誤無効の要件事実は,@意思表示に錯誤があることAその錯誤が法律行為の要素に関するものであることである。…定評のある教科書においても,錯誤無効の要件として,「表意者に重大な過失のないこと」を挙げるものがある(四宮和夫=能見善久『民法総則〔第6版〕』222頁)。表意者であるYに重大な過失がある場合には,無効主張することができない(民法95条ただし書)からであるが,要件事実論においては,「表意者に重大な過失がある」という事実を主張することは,Xの反対主張(再抗弁)となることに注意すべきである(四宮=能見・前掲書の記述も,前に述べたように,民法の教科書では,民事訴訟の攻撃防禦の構造という観点を織り込んで,要件が説明されていないという一例であるといえよう)。
四宮和夫『民法総則』〔第4版〕(1986)178頁 |
しかしながら,民法においては,重大な過失があるということは,悪意と同じように扱われている(民法470条,民法698条参照)。したがって,錯誤に関して,「表意者に重大な過失がある」という主張は,「表意者はわざとで錯誤に陥っているようなもの」と考えることができるのであり,それは,「冗談のような話」となるのであり,結果的には,「錯誤」の問題ではなく,「心裡留保」の問題として,有効とも,無効ともなる可能性を有していることになる。
つまり,この場合には,錯誤の枠内で処理するか,心裡留保に類する問題として相手方の「善意・無過失」も考慮すべきかという,請求原因としての要件事実に直接関係する問題が生じているのであり,錯誤無効の枠内での「再抗弁」というようなレベルをはるかに超えた問題となっている。
このように考えると,上記の四宮=能見・民法総則の記述は,むしろ,正当である。なぜなら,四宮=能見・民法総則は,「表意者に重大な過失の存しないこと」を錯誤無効の要件として挙げるとともに,「相手方が悪意の場合には,民法95条但書(表意者に重大な過失があったときは,表意者は,自らその無効を主張することができない)は適用すべきではない」こと,すなわち,いわゆる「再抗弁」自体が失当となることを明確に述べているからである。
このように,要件事実教育の専門家は,実体法の法律要件を挙証責任の分配という観点から分断してしまうため,錯誤と心裡留保とを連続的に捉えるというように,大局的な観点から要件の全体像を捉えるということができなくなってしまう傾向が強い。
さらに,一歩を進めて,錯誤の問題について,権利外観法理を全面的に適用することが考慮されてよい。そのような考慮を行うと,要素の錯誤,重大な過失による要素の錯誤,動機の錯誤の効果が,統一的に捉えられことがわかる。
要素の錯誤であっても,概観を信じた相手方が善意・無過失の場合には,表意者は無効を主張できない。反対に,要素の錯誤につき,表意者に重過失がある場合,さらには,動機の錯誤であっても,相手方が悪意又は有過失の場合には,表意者は無効を主張することができる。
上記の結論を,条文の形で表現するならば,以下のようになろう。
民法95条の改正試案(錯誤における外観法理の適用)
@意思表示は,法律行為の要素に錯誤があるときは無効とする。ただし,相手方が表意者が錯誤に陥ったことを知らず,かつ,知らないことに過失がない場合にはこの限りでない。←要素の錯誤における権利外観法理の適用(有力説(川島・舟橋・野村豊弘説)と同じ)
A表意者に重大な過失があったときは,意思表示はその効力を妨げられない。ただし,相手方がその事実を知っていたとき又は過失によってその事実を知らなかったときは,この限りでない。←重過失による錯誤の場合の権利外観法理の適用(民法93条ただし書きの類推)
B意思表示は,法律行為の動機に錯誤があるときでもその効力を妨げられない。ただし,相手方がその事実を知っていたとき(又は過失によってその事実を知らなかったとき)は,その意思表示を取り消すことができる。←動機の錯誤における権利外観法理の適用(民法96条2項の類推)
上記の条文を丁寧に解説すると以下のようになる。
法科大学院の教育目標の一つは,ルールの観点から事実を発見する能力,および,事実に即して具体的な法的問題を解決していくため必要な法的分析能力を育成することにある。この限りで,ルールと事実を結びつける法律要件と法律効果の学習は欠かすことができない。
しかし,立証責任の分配を所与のものとして,法律要件を要件事実,抗弁,再抗弁,再々抗弁,…と分類することは,無益ではないかもしれないが,有害である。
したがって,法科大学院においては,理論的に破綻した「再抗弁」,「再々抗弁」を乱発して,実体法のあるべき姿をゆがめることになる要件事実教育を実施する必要性は認められない。
むしろ,要件事実教育の弊害を除去するためには,法科大学院においては,以下の点を考慮して,要件事実教育の弊害を強調すべきである。
夏目漱石『夢十夜』 運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから,散歩ながら行って見ると,自分より先にもう大勢集まって,しきりに下馬評をやっていた。 … 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて,鑿の歯を竪に返すや否や斜すに,上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って,厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら,小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。 「よくああ無造作に鑿を使って,思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。 するとさっきの若い男が,「なに,あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを,鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。道具箱から鑿と金槌を持ち出して,裏へ出て見ると,せんだっての暴風で倒れた樫を,薪にするつもりで,木挽に挽かせた手頃な奴が,たくさん積んであった。自分は一番大きいのを選んで,勢いよく彫り始めて見たが,不幸にして,仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが,どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。 ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。 |
パロディ『夢十夜』 ローゼンベルクと兼子先生が,要件事実に従った立証責任の分配を行っているというので,行って見ると,自分より先に,もう大勢集まって,しきりに下馬評をやっていた。 … 先生方は,本文+ただし書きや,前段+後段という民法の条文構造に着目しながら,条文中の要件のち,どれが請求原因事実で,どれが抗弁で,どれが再抗弁で,どれが再々抗弁に当たるかを分類し,立証責任の分配を行っていた。その分類のやり方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。 「よくああ無造作に条文を操って,立証責任の分配ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。 するとさっきの若い男が,「なに,あれは立証責任を振り分けているのではない。立証責任の分配法則が条文の中に埋っているのを,見分けているだけだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。 自分はこの時始めて立証責任の分配とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も要件事実の分類がしたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。本棚から要件事実の教科書を持ち出して,六法全書を開いてみるとたくさんの条文があった。自分は一番条文の多い民法を選んで,立証責任の分配を始めて見たが,不幸にして,立証責任の分配基準は見当らなかった。その次の条文にも,発見する事ができなかった。三番目のにも分配基準はなかった。自分は条文を片っ端から探して見たが,どれもこれも立証責任の分配基準を蔵しているのはなかった。 ついに平成の六法にはとうてい立証責任のルールは埋っていないものだと悟った。それでローゼンベルク説や兼子説がが今日まで生きている理由もほぼ解った。 |
立証責任の分配は,英米法のように,証拠優越の原則が働くところでは,ほとんど意味のない概念であるばかりでなく,証明度に高度の蓋然性を要求するわが国の現状においても,真偽不明のときという,まれにしか起こらない場合にのみ働くものであり,真理を発見するためには,どちらに立証責任を負わすのが適切であるかという,訴訟法上の問題に過ぎない。
訴訟法上の問題である立証責任の問題と,実体法上の要件事実とを結合する試みである規範説,および,その理論に基づいて,実体法上の要件事実を「いわゆる要件事実」,「抗弁」,「再抗弁」,「再々抗弁」,…と分断して分類し,それに基づいて訴訟法上の攻撃防御の方法を決定しようとする要件事実教育は,裁判官の裁量を極力抑えようとするものであり,優秀な裁判官にとっては,桎梏以外の何ものでもない。また,裁判官が法律要件を判断する際に,一定の考慮事項を課すという制約の下で,立証責任の判断を含めて,裁判官の裁量の余地を大きくしようという,以下に述べる世界的な傾向と比較しても,規範説に基づく要件事実教育に将来性はないといわざるを得ない。
裁判官は,実体法上の要件を判断するに際して,自由な発想を要求されており,当事者の主張責任や立証責任を硬直的に判断するのではなく,事案の特色に応じて,実体法の要件の解釈ばかりでなく,立証責任の分配についても,自由に解釈する権限を有すると考えるべきである。
例えば,債務不履行における帰責事由の立証責任を考える場合にも,不法行為とは異なり,債務者が帰責事由がないことを立証しなければならないというように,硬直的に判断するのではなく,その債務が,結果を約束している債務(結果債務)なのか,それとも,最善の努力を尽くすことのみを約束している債務(手段債務)なのかによって,立証責任の分配を変えることが許されるべきである。
さらには結果債務か手段債務かを判断する場合にも,硬直的な要件によって判断するべきではなく,その債務がどのような債務として,明示的にまたは黙示的に表示されていたのか,その他の債務と比較して,報酬等が高めに設定されているかどうか,その債務を履行するに際して,結果を実現するためにどのようなリスクが生じているのか,債務を履行するに際して,債権者がどの程度その実現に影響力を与えうるかどうかなどの事情を詳しく検討し,それらの事情を総合的に判断して,問題となっている結果債務なのか主題の債務なのかを判断するというように,裁判官の自由裁量を大きく認めるべきである。
裁判官のレベルが低い時代に,裁判官の思考過程に介入し,硬直的な思考を押し付けるために考案された要件事実教育は,司法改革によって克服されるべき対象であり,今や,その役割を終えたというべきである。そして,裁判官の自由な判断を保証する柔軟な要件事実教育へと改革することが必要である。
新しい要件事実教育を構築するためには,訴訟法上の問題である立証責任の問題を,完全に実体法に依存させ,その結果として,実体法の理論の発展を阻害している兼子理論=規範説の克服からはじめなければならない。そして,新しい要件事実教育を構築する作業は,実体法と訴訟法とのそれぞれの独立を前提とした上で,相互の協同・協調を通じて実現されるべきである。学者と実務家が協力して教育に当たっている法科大学院は,まさに,その任務を達成するにふさわしい場といえよう。