ポルノグラフィの考え方

−男性における性支配の考え方を理解し,それを克服するために−

2004年5月25日

名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山 茂


性的暴力の問題を考える場合に,避けて通れないのは,男性が女性を性的に支配しようとする思想であり,結果的に,性的暴力の肯定へとつながるとされている「ポルノグラフィ(ポルノ)」の問題である。

男性の性的行為を考察するに際しては,以下の表のように,対象とする行為が,自分だけの満足のための行為か,相手を尊重する行為かによって区分しておくことが有用であろう。

男性の意図から見た
性的行為の分類
現実の相手なし 現実の相手あり
補助なし 補助あり 合意的または
有償
一方的または
無償
ポルノグラフィ
自分だけが満足する
(広義のマスタベーション)
狭義のマスタベーション フーゾク 売買春 強姦,DV
(自己満足のみ・無害) (自己満足だが相手も満足していると思い込む)
自分だけでなく相手を尊重する
(セックス)
幸せなセックス 優しいセックス
双方ともに満足 相手の満足を優先

ポルノグラフィ(pornography)とは,性文化研究の古典的名著と言われる[マーカス/金塚訳・もう一つのヴィクトリア時代(1966)372-375頁]によれば,以下のように,「攻撃的,サディスト的な側面がつねに優るという男のセクシュアリティーの支配の概念である」とされる。

(ポルノグラフィーの性的ファンタジー,すなわち,西欧近代の性的ファンタジーは)それは大まかに言えば、支配のセクシュアリティーであり,攻撃的,サディスト的な側面がつねに優るという男のセクシュアリティーの支配の概念である。筋はそれぞれに分かれてはいても,この点に関してはどれも同じである。どれも,処女で,気位が高く,貞節で,自然がまだ目覚めていない若い女からはじまる。その女が,鞭打たれ,強姦によって処女を奪われるといった暴力に続けさまにさらされてゆく。こうした受難によって,プライドはへし折られ,純潔は破られ,自然−快感への目覚め−がそれらにとって代わる。男のセクシュアリティーのこうした概念は,…また,19世紀から20世紀にかけて書かれたポルノグラフィー作品の圧倒的な多数に描かれた男のセクシャリティーの形態でもある。
この概念の中心をなすものは,文字通り、無限の力をもった魔法の道具とみなされたベニスである。…(中略)…こうしたペニスに対する極端な過大評価は,さらに,ペニスは武器であるという考えにも至る。それは突き破り,傷つけ,引裂き,そしてその攻撃対象を死に至らしめることさえできる。…(中略)…こうした一節ほど,ほとんどすべてのポルノグラフィーが男たちの手で男たちのために書かれている−視点がことごとく男のものである−という事実を歴然と物語るものはない。すべてはこの器官と,それが為し得ることに集中する。その器官は人格化され,女は女であることをやめ,もの,つまり,ペニスがその破壊的な,しかも快感をもたらし得る力を発揮するためのものにさせられる。…(中略)…そしてこのものとしての役割において,女たちは,共通性に還元され,女たちはすべて同じものになってしまうのだ。

ポルノグラフィーの具体的内容は,[マーカス/金塚訳・もう一つのヴィクトリア時代(1966)]において,ポルノグラフィーの古典とされる代表的な作品(ピサヌス・クラシス『わが秘密の生涯』(1888年)等)の紹介と分析とによって明らかにされているが,現代のポルノ作品の特色は,[角田・性差別と暴力(2002)153-154頁]によれば,以下のようにまとめることが可能である。

  1. 女性が苦痛や屈辱を楽しんでいる性的対象物として表現されている。
  2. 女性が強姦されることで性的快楽を味わっている性的対象物として表現されている。
  3. 女性が縛り上げられ,切り刻まれ,切断され,青あざを作られ,肉体的に傷つけられ,あるいは,手足をもぎ取られ,頭部を切り取られ,肉片にされ,身体の部分に切り離される性的対象物として表現されている。
  4. 女性が物や動物で貫かれるものとして表現されている。
  5. 女性が侮辱され,傷つけられ,低級なものとされ,拷問される筋書きの中で,みだらなものとして,卑しいものとして,血を流しているものとして,あるいは青あざだらけのものとして描かれ,あるいは,これらのことをセクシーにする文脈のなかで傷つけられるものとして表現されている。
  6. 女性が支配され,征服され,侵害され,略奪され,所有され,利用されるための性的対象物として表現され,あるいは奴隷状態や従属状態におかれ陳列される物として表現されている。

ポルノグラフィの害については,[角田・性差別と暴力(2002)161-169頁]によれば,以下の実害があり,ポルノグラフィと男女平等社会とは両立しないと論じられている。少し長くなるが,重要な指摘であるので,そのポイントをピックアップしてみる。

  1. ポルノグラフィはそれ自体,女性差別的な表現であり,ポルノグラフィを見ることによって女性差別意識を形成・強化し,社会生活における女性の地位を低下させる。
  2. ポルノグラフィは性的暴力を悪とする感覚を麻痺させ,その結果,女性に対する性犯罪や侮辱的な性的行為を誘発する。
  3. ポルノグラフィが作成される過程で,モデルとなった女性に性的虐待などの精神的・肉体的苦痛が加えられる。
  4. ポルノグラフィは,女性を人格を備えた人間としてではなくモノとして取り扱うことにより,女性の人間性を傷つけるという心理的暴力を行使する。
ポルノが提示する女性は,どこまでいっても男性に都合のいい性的対象物でしかない。平等は人間と人間との関係ではじめて考えることができる。人間と物との平等などは,ありえない。ところが,ポルノが描く女性は,物であって,人間ではない。人間が性的存在であるのはもちろん事実だが,性的存在が人間であることのすべてではない。
女は性的な物だというメッセージに,四六時中満たされている社会が日本の現実である。そのような社会でどのような平等な人間の関係が男女の間に構想されるというのか。
ポルノによって女性を性的に虐待することを性的快楽とする精神と肉体の回路が普通の男性の中に作られているのではないか。アダルトビデオの中で顔射(女性の顔面に向けて射精する)が流行っていたとき,ちまたでも男性たちはそれをまねして,自分のセックスの相手の女性に試みたという話をたくさん聞いている。
実演の性暴力を,自分の部屋やホテルの部屋で見て楽しむことが日常になっている男性のセクシュアリティは,彼がかかわりを持つ女性に何の影響もないのか。彼にとっての女の見本は,ポルノの中で,「喜んで」痛めつけられている女性ではないか。彼のその体験は,職場で女性の同僚と接するときの女性観に,何の影響も与えてないでいられるのか。女性を性的対象物として見るのは,私的空間でひそかにポルノを楽しんでいるときだけで,通勤の電車の中で女性を見るとき,会社で女性を見るときには,全く別の女性観が,まるでカセットテープを入れ替えるように,頭の中に入れ替えられるのだろうか。
ポルノは明らかに女性に対する暴力の教科書として使われている。ポルノにさらされた男性にとっては,セックスは暴力と結びついたものとして,彼自身のセクシュアリティを形作るだろう。ポルノの氾濫と女性に対する暴力の蔓延とが,無関係ということはできない。
ポルノにセクシュアリティを形成された男性と,女性が「社会の対等な構成員」になるとは,現実にはどういうことを指すのか。平等な関係作りの最も基礎になるべき部分が,ポルノによって掘り崩されているのではないか。このことを見ない「男女共同参画社会の形成」は,砂上の楼閣ではないか。
女性を男性より低い存在に押し込めるのに有効な手段は,女性を全人格的な存在と見ないことである。手っ取り早い方法は,女性から自立した生活手段を奪い男性に依存させ,男性のための性的な存在に押し込めて,半人前にしてしまうことである。仕事に行っても,一人前の労働者として扱われるのではなく,男性労働者の性的欲求や性的関心を満足させる存在とされるのであれば,職場はその女性にとって苦痛に満ちた場でしかない。彼女はその苦痛から逃れるために,仕事をやめるかもしれないが,新しい職場も前とさして違いがないだろう。このようにして,女性はさらに不平等な地位へと呑み込まれていく。そして,より低位に位置づけられた女性は,さらに価値のないものとされる。生きるためには,性産業に職を求めるかもしれない。
ポルノは,女性を人間から単なる性的対象物に突き落とし,女性が不平等の渦に巻き込まれていくのを,促進している。この渦を逆回転させるには,ポルノの勢いにストップをかけなければならない。

そして,この議論は,「性差別なくし,平等を築くには,表現の自由は絶対でないことが,確認される必要がある」…「日本の日常生活でのポルノの氾濫ぶりは,国際的にもつとに有名である。この実態を放置しておいて,男女共同参画社会形成を語ることはできない」[角田・性差別と暴力(2002)176-177頁]として,ポルノ規制の必要性が強調される。

確かに,ポルノの出演女性の被害に対して,民・刑事責任を容易に問うことができるようにすることは重要である。特に,ポルノが映像化し,ポルノが,出演女性に対する虐待(犯罪)のドキュメンタリーと化している現状においては,そのような犯罪を容易に規制できる法整備が必要である。しかし,ポルノを規制するためには,表現の自由も制約されてしかるべきだという点に関しては,注意が必要である。

表現の自由の制限の問題点は,[マーカス/金塚訳・もう一つのヴィクトリア時代(1966)475-476頁]において指摘されているように,文学とポルノグラフィとの区別が困難である場合が存在するからである。

書かれ,印刷され,読まれるものである以上,人間活動の小説的な提示である以上,ポルノグラフィーもまた形式的な意味においては言うまでもなく,文学である。そうであればこそ,その目的とするものに対して理論的に反対することはできない。読者を性的に刺激する意図,目的をもっているからといって,それだけでその作品を非合法とするいわれはない。涙をさそい,不正に対する怒りをかきたて,恐怖におののかせ,憐れみや戦慄を喚起する等といった文学作品が許されるなら,性的に興奮させる文学作品も同じように許されるはずである。それはまぎれもなく文学の機能の一つに他ならないのだから。(ただし,文学が多様な意図をもつのに対して,ポルノグラフィーには一つの意図しかない。この意図の単一性ということが,ポルノグラフィーの何たるかの理解を助け,批評的判断が評価できなかった問題に解答を与えてくれる)。

ポルノグラフィの害から社会を守るためには,まず,あらゆる形の性暴力(ポルノに出演する女性に対する虐待ばかりでなく,恋人・夫婦間であっても具体的な同意のない性的行為の強要を含む)を具体的な犯罪として構成し,これらを規制する必要がある。その上で,表現の自由に制限を加えるのではなく,むしろ,ポルノグラフィの表現の自由をも許し,それを徹底的に分析して,男性たちが,ポルノグラフィの洗脳から自由になれるような,より高度な表現の自由を促進することが重要であると思われる。ポルノグラフィの本質が,「幼児的な性生活のファンタジー,そして思春期の自慰的な白昼夢の中で改変され,再組織されたその同じファンタジーの再現である」という洞察がなされたり,同じく,[マーカス/金塚訳・もう一つのヴィクトリア時代(1966)469頁]の以下のような分析によって,作家の内面に,強姦願望者の内面に似た意図が隠されているのではないかと推測することができるのも,表現の自由が保障されているからに他ならない。

ポルノグラフィーの作家の内面には,母の乳房から引き離されて泣き叫ぶ幼児の姿があるのだ。ポルノグラフィーとは,母の乳房をもう一度獲得しようという際限のなく繰り返される努力を表わすものに他ならない。そして,それがもたらす至福は,同時に,いわば宇宙的な不正(母の乳房から引き離されたこと)ともいえるべきものを招来させた世界−そしてそこにおける女性−に対する復讐ともなるのだ。

最後に,ポルノグラフィ研究の成果[マーカス/金塚訳・もう一つのヴィクトリア時代(1966)487-489頁]を引用して,この稿を終えることにする。なお,わが国の浮世絵春画の世界(成熟した社会)は,このようなポルノグラフィーの考え方を超越していたとする指摘がなされているので,参照すると有益であろう[早川聞多「春画と地女」(2000)122-126頁]。

古くさい陳腐なポルノグラフィーがあれもこれも自由に出版されるようになったからといって,私にはそれが必ずしも,道徳の欠如,疲弊,社会的退廃を意味するとは思えない。そのことはむしろ,ポルノグラフィーがかつての危険性を,かつての力を失ったということこそを示唆しているのだ。否定的な社会的制裁,追放処分とはつねに,何ものかによって社会がいかに脅かされているか,その力を社会がどれほど恐れているか,社会がある観念なり,作品なり,行為なりを既成秩序に対してどれほど撹乱的ものとみなしているか,そうしたことのもっとも信頼に足り得る指標に他ならない。
ポルノグラフィーの衝動とファンタジーとは超歴史的なものである。それらはつねに我々とともにあり,存続しつづけるであろう。ポルノグラフィーとは,結局,幼児的な性生活のファンタジー,そして思春期の自慰的な白昼夢の中で改変され,再組織されたその同じファンタジーの再現に他ならない。人間の成長にとって,そうした一時期を通過することが避けられないとしたら,我々の社会がその歴史の過程において,そうした一時期を通過してはならないとは,私にはどうしても思えない。

参考資料