論文を書く時の資料の整理について

大阪大学大学院法学研究科 博士課程後期

加賀山 茂


目 次

はじめに

論文を書く意味

  1. 読み手にとっての論文の意味
  2. 書き手にとっての論文の意味
  3. 読み手にも書き手にも意味のある論文

資料の収集とその整理

  1. 資料収集の必要性
  2. 資料整理の二つの型
  3. 学説・判例一覧表の作成

論文を書く手順

おわりに
 


はじめに

私は現在、阪大法学102号(昭和52年3月刊行)に掲載予定の論文を書いている。「民法六一三条の直接訴権≪actrion directe≫ について」という論文である。論文を書くのは、三回目であるが、これまで一番苦労したのは、文献の引用の仕方である。「いかなる文献をどのような形で、いかなる範囲で引用するか」という問題は、法律学のように実証的な論文を書く場合に必ずつきまとう、厄介な問題である。

これまでも、この問題について、何とか納得のいく自分なりの結論を出そうと考えてきたが、今回、論文のレジュメを作った際に一つの方法を考えつき、その方法を実際に使ってみた。初めてのことで、少し時間はかかったが、自分なりに納得できたのでその資料整理の工夫をここに紹介する。

論文の書き方については、すでに川島武宜先生が、学生の身になって、わかりやすく、懇切丁寧に述べておられる(有斐閣・書斎の窓 209号(昭和47年)7‐17頁)。しかし、文献や資料の整理については余り述べておられないので、ここではこの点を中心に論じることにする。これから論文を書く人にとって、何らかの参考になれば幸いである。

一 論文を書く意味

  1. 読み手にとっての論文の意味

    論文はそのテーマについて、
    1. 現在の研究の到達点を示し、そこにどのような問題が横たわっており、もしくは新しい問題が生じているかを明らかにし、
    2. そのような点から見ると現在の研究はどの点で不十分であり、それを克服するためにはどのような解決方法と理論が必要であるかについて論じて、
    3. 筆者の結論を示すものでなければならない。

    判決が、事実と主文と理由とから構成されているように、論文もそのテーマに関する問題状況と、論者の解決方法、および納得しうる理論が示されていなくてはならない。さもなければ、論文を読む人を満足させないことは勿論、読んだ人の努力や時間も償われないなわれないことになろう。

    さらに、読み手は論文に対して、そこで論じられる問題が発生した背景・歴史、また、その問題解決のための精緻な理論づけを要求する。

    しかし、このような要求を、限られた紙面で論じ尽くすことは至難の技にちがいない。それにも拘らず、このような要求に答える論文が次々と発表されている。このことは、書き手の方にも、このような論文を書くことによって得られる、読み手と共通の利益が存することを示している。論文は決して読み手の知的興味を満足させているだけではない。

  2. 書き手にとっての論文の意味

    論文を読む目的が色々であるように、論文を書く目的も人によって様々である。しかし、いずれにせよ、論文は半分の強制と半分の自発性とによって書かれると言われている、半分の強制とは、原稿を依頼されたり、卒業論文として、どうしても書かねばならない場合がそれである。半分の自発性とは、自分の理論なり、思想なりを他人に伝授したいという押え難い衝動である。

    これまで、どうしても分からなかった事や、混乱した学説や判例を、これまでと違った観点から眺めてみると、頭の中が、すっきりと整理され、しかもその理論を押し進めると、その他の問題にもうまく対応できるという場合がある。これまでの研究では、解決不能とされてきた問題や、解決方法はあっても、その理由づけが困難であった問題などが、あるきっかけですべて解決できると論者に感じられる時があるものである。このことは、例えば、他人に質問されて四苦八苦して勉強しているうちに経験することもあれば、余り関係のない本を読んでいてふと思いつくこともある。それは、暗闇の中で、一つの光を発見し、自分の進む方向を見出したような感じがするものである。

    これまで、誰もそのような解決の方法を歩んだ者がなかったり、そのような観点から問題を見た人がいなかった場合、同じ問題で悩んでいる人に、その解決方法を知らせたいという衝動に駆られるのは自然のなりゆきであろう。その点では、新しい美しさを発見した芸術家がその美しさを他人に知らせたいと思うのと同じである。

    つまり、書き手にとって論文を発表するということは、これまで混乱していた問題を、新しい観点から秩序づける方法を発見したことの「報告」の意味を持つことになる。

    どの論文にも見られる問題の提起や、他説に対する攻撃は、論者が新しく発見した方法による問題の分析と比べて、これまでの理論がどれほど混乱していたかを立証するために引き合いに出されたものに過ぎない。また、論文における精緻な理論構成も、論者の発見した新しい観点から見れば、これまでの対象が、別世界のように再構築されうることの証明にすぎない。書き手にとっては、これらの論証は、自らの発見した観点と、新しい方法の「報告」を際立たせる役割を持つにすぎないのである。

    選ばれたテーマが誰にとっても難解であり、しかも、論者が新しく発見した観点によって、見事に問題解決の法方を示すことができれば、それは多くの人にその発見の喜びを追体験させることができ、高い評価を得ることができる。

    これに対して、選ばれたテーマは同じように難解であっても、発見された観点では、問題をすっきりと解決できない場合や、重要な観点の発見であっても、それに基づく理論構成に失敗すると、発見の価値は半減する。選ばれたテーマについてこれまで誰も関心をもたなかったり、これまでの理論で十分であると考えられていた場合には、ある観点の発見によって新しい世界像が示されても、それがこれまでのものと比較して格別に素晴らしいものでない限り、余り注目をひかないことになる。

    しかし、いずれの場合においても、論文を書く者の意欲にとっては、論文の評価は余り関係のないことである。論文が評価されるということは、ほぼ共通の問題意識を持つ読み手が多かったというだけのことにすぎない。

    皮肉的に言えば、世の中のすべての矛盾をそっくりそのまま受け入れるほど頭のよい人がいたとしたら、その人は論文を書く必要も読む必要もないことになる。例えば、トランプをバラバラに並べても、それをすべて頭の中に描くことができる能力を持つ人にとっては、そのトランプを一から順に並べるというような系統づけは全く必要のないことだからである。

    つまり、読み手と同じ程度の頭脳を持ち、多くの問題に矛盾と混乱を見い出す者にとってのみ、論文を書く真の意味があるということになろう。そしてそれが高く評価されるかどうかは、一種の偶然のなせる技にすぎないともいうことができよう。

    もっとも、論文は小説等と異なり、客観性を狙って書かれる事が多いため、多くの人に評価されなければ、論者の意図は充分に果たされないことになるかもしれない。

  3. 読み手にも書き手にも意味のある論文

    ある論文が客観性をもって評価されるためには、次のことが必要となる。

    1. 多くの人にとって難解であると考えられているか、これまで余り問題とされなかったが、実は大きな矛盾を抱えている問題をテーマとすること。

    2. 論者の発見した観点に立てば、その問題を正しく解決でき、又は整然と理論づけられること。そしてこの観点がこれまで誰にも発見されていないか、発見されていても不当な評価しか与えられていなかったこと。

    以上の二つのことを実証するために、これまでの説を何らかの形で紹介することが必要となる。

    まず、選んだテーマが難解であることを示すために、これまでの説では、納得のいく解決が示されないことを証明するのが通例であるし、次に、自分の見出した観点が、これまで誰にも気づかれていなかったか、もしくはこれまで余り評価されなかったことをも確実に実証しなければならない。このためには多くの文献を読破し、それを論文の中に適切に引用することが必要になる。

    しかし、この事は思ったより困難な作業であり、しかも、やり方を誤まれば、途方もない時間を費すだけで、余り実りのない結果となる恐れのあるつらい作業である。この作業をうまく切り抜けられるかどうかが、論文の成否に大きな影響を与えるのである。

二 資料の収集とその整理

  1. 資料収集の必要性

    論文を書くに際して、できるだけ多くの資料を収集することが必要なことは論じるまでもない。そのテーマに関連する文献は、古今東西を問わず多ければ多いほど、一つのことにとらわれない発想を得ることができるし、これまでの研究成果をさらに一歩進めるものを書こうとすれば、これまでの到達点を知るためにも、文献の収集が必要となる。しかも、先に述べたように、論文を書くことが新しい観点の報告である以上、すでに誰かによって発見されている観点を、自分の発見と誤解して論文に発表するという愚かなことは避けなければならない。このためにも文献の収集は欠くことができない。

    文献収集の仕方も一つの技術であり、図書館学の一部門を形成する。文献検索の専門家の協力を得ることにより、ほとんどの文献の所在と入手方法を知ることができるのであり、これも重要な問題であるが、ここでは触れることができない。

  2. 資料整理の二つの型

    論文を書くためには、そのテーマに関連する必要な文献を収集し、読まなければならない。しかし、そのことを通じて新しい観点を発見し、新しい理論を構成することができた場合に、これまで読んだ資料をどのような形で引用するかということは、資料の収集とはまた別の問題である。

    資料の整理の仕方は二つに分類できる。第一は、論じるテーマに関する資料をすべて収集し、それを論者の新たな観点に立って分類し、そのすべてを要約する方法である。第二は、論者の発見した新たな観点によって新しい理論を構成する上で、必要なものをその限りで利用する方法、すなわち、自分の論ずる筋道を決定し、その道を横切る文献をその場所に配置していくという方法である。

    第一の方法は、現在の研究水準を明らかにするには便利であるが、これまで先人が辿った筋道をいちいち紹介することになって、論文を退屈なものにする恐れがある。

    これに反して、第二の方法は、論者の考えがよく分って論文を読みやすいものにはするが、資料の整理としては主観的になりすぎる恐れがある。

    論者は、論文を書く目的や対象とする読者の要求によって、いずれかを選択することになるが、私の場合は、論文をわかりやすくするため、第二の方法を選んだ。しかも、余り主観的にならないようにするために、一つの工夫を試みたのである。

    それが次に紹介する、学説・判例一覧表である。

  3. 学説・判例一覧表の作成

    論者が、これまでの研究の到達点を十分に把握し、しかも、自分の新たな観点に立った理論構成を心に描くことができたならば、問題の提起から結論に至るまでの道筋を実際に描いてみる必要がある。

    そうして描いた道は、ある点では、すでに先人によって部分的に道がつけられていたり、あるいはその道を横から、斜めから横切る道がついていたりすることに気づく。先人によって、論者と同じ道がすでにひかれている場合には、その部分について、利用許可を申請すべきであろうし、交叉している箇所には標識なり、信号なりをつける必要があろう。

    このことを、論文では注の形で行うが、それ自体が論者なりの文献の整理となっているのである。このような資料の整理をするためには、まず論者の発見した新しい観点によって、論者の道をレジュメの形で作ってみるべきである。そしてそのレジュメが出来たら、そのレジュメを分析し、いくつかの論点に分解してしまう。つまり、その道を一旦、ブロックごとに分けてしまうのである。そしてそのブロックごとに、その道を横切っている古い道があるかどうかを検討する作業が始まるのである。これには次の順序を踏むのがよいと思われる。

    1. テーマに関する文献を(A)そのテーマに直接関係する文献と(B)隣接領域の文献とに分類する。そして、直接テーマに関係する文献は、さらに、@わが国のものと、A外国のものとに年代順に分類する(この時に文献カードや判例カードを作っておくと便利である)。

    2. そして以上の三つにつき、年代順に分類した文献を、なるべく大きなトレース用紙に、それぞれ、筆者名、題名、発表年を書き、頁数と、内容欄を空白にしたまま、自分の論じる論点の数だけブルーコピーするのである。

    3. 次に、一つ一つの資料を読みながら、この表の頁数と、内容欄を埋めていく。この作業の途中で、自分の道が途中で切れていたり、川につき当っていることを発見することもあろう。その時は、もう一枚同じ論点表をコピーし、新たな論点をつけ加え、それによって、途切れていた道を新たにつけたり、川には橋をかけるという作業をすればよい。

    このようにして、空白欄が一応埋まれば、論者の道のどの箇所を、これまでどのような道が横切っているかを歴史的、比較法的に明かにすることができる。そして論文においては、それらの道について「この道行き止り」とか「遠回り」とか「危険」とかの標識を注の形で立てたり、すでに先人により部分的に出来ている道については「感謝」の表示をしたりすることが必要となってくる。ここまで来れば、あとは、論文の分量やスタイルに応じて、自分の論理の道筋を原稿用紙に描いていけばよいことになる。この学説・判例一覧表の長所は次の点にある。

    1. 自分の論文の論点を再認識することができる。

    2. 収集した文献を、どの範囲で、どのように引用するかについて、頭を悩ます必要がなくなる。

    3. 引用の恣意性から免れることができ、主観性と、客観性とを、同時に保つことができる。

    4. 他人の論文に引摺られて、関連のないことまでダラダラと引用したり、自分の論点がぼやけるのを防ぐことができる。

    5. その論点についての意見を誰が初めて主張したのか、また、誰と誰とによって論争が行なわれているかが、一目瞭然となる。


    しかし、この表の欠点としては、慣れないうちは作成に時間がかかること、表をコピーした後に重要な文献を見落としていたことが分かった時は、追加がむずかしいことが挙げられる。したがって、時間がない時や、文献がまだ十分に収集されていない段階では、この表を作ることは余り意味がないといえる。

三 論文を書く手順

これまでに論じたことを時間的に整理すれば次のようになる。

  1. 現在の学説、判例の中にある矛盾や混乱にであうこと。

  2. 代表的な体系書や論文では、その混乱が解決されていないことを認識すること。

  3. いろいろな文献を収集し、議論をし、実例にあたりながら、解決のための新しい観点を探し、発見すること。

  4. その観点によれば、これまでの混乱を克服し、新しい世界像を描けることを確信すること。

  5. 論文のテーマをしぼり、論文の量と、自分が使える時間を考慮して、構想を練ること。

  6. 論文の構想のレジュメ(論文の1/3又は1/2程度のもの)を作成し、仲間に批評してもらうこと。

  7. レジュメを論点に分解し、その点に関する文献を収集し、体系書、論文、判例は、すべてカードにとり年代順に分類すること。

  8. カードをもとに、学説・判例一覧表を作成し、文献を読破しながら整理すること。

  9. 論点の補充、構想の修正を行うこと。

  10. 論文の最終的な分量とその割りつけを決定し、原稿用紙に定着していくこと。

おわりに

論文を書くということは、混沌とした暗闇の中で一条の光を見つけ、その光をたよりに、自分の目標に向って新しい道をつけていくようなものである。一条の光の発見が論文作成の衝動となり、しかも目標に向って道を作り、これまでの先人のつけた道と交叉している箇所に、一つ一つ標識をつけていくという地味な仕事を支える力ともなる。

完成された論文を読んで、論者の発見した光を新鮮と感じ、その道を一緒に通って見て、論者の感動を追体験してくれる人が多ければ多いほど、その論文の評価は高くなる。そして論者にとっても、その喜びは大きい。しかし論文の書き手にとって一番大切なことは、論者とは別の光を発見して、同じ、または、別の目標に到達した人の批判を受けることである。そして、その人との討論を通じて、よりよい道を見つけることができるならば、それ以上の喜びはないといってよい。

論文が学問の水準を高めるものであるとすれば、それは論文を読んだ者が、その論文により、もっと次元の高い観点を発見できるような機会を与えられるからであろう。そのような人が一人でもあれば、その論文を書いた意味は十分に果されるのである。


初出 : 大阪大学法律相談部『法苑』復刊3号(1977年)15頁