11Joint&Several1
22/30 相互保証理論に対する通説の評価←反論,原理
【テロップ】
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【ノート】
相互保証理論に対する評価は,私のように,全面的に賛成するものもありますが,批判するものもあります。■ わが国を代表する理論家であった平井ヨシオは,その債権総論の教科書(平井・債権総論(1994)327,330頁)において,相互保証理論について,以下のような評価を行っています。■ 〔保証と異なり〕連帯債務においては,複数の債務の間に主従の別(フジュウ性)が存在せず,各自が同一内容の独立の債務を負担しているにとどまる(327頁)。 ■この記述から,平井・債権総論は,相互保証理論を全く理解していないで記述されていることが明らかとなります。 ■なぜなら,相互保証理論の出発点は,連帯債務を本来の債務である負担部分と,連帯保証である保証部分との結合であると考えることにあります。 ■そう考える以上,連帯債務の一人の負担部分が消滅すれば,その負担部分を連帯保証していた他の連帯債務者の保証部分がフジュウ性によって消滅することは,相互保証理論にとって自明のことであって,連帯債務は,債務であって保証ではないから,フジュウ性が存在しないという平井説は,相互保証理論を全く理解していないといわざるを得ません。■ ■そうすると,平井説による相互保証理論の評価は,その評価も批判も,いずれも当てにならないことがわかります。 ■平井説は,相互保証理論に対して,以下のような記述をしています。■ 〔相互保証〕説はきわめて明快であり,連帯債務を対人担保の側面において理解しようとする本書の立場の理論的根拠となるものではあるけれども, 負担部分を基礎とした効果を生じる場合以外の場合(435条〔更改〕,438条〔混同:民法438条によって弁済をしたものとみなされる〕についての説明に窮する(330頁)。 ■このような記述は,相互保証理論を一応は理解した上で,評価・批判をしているように見えます。 ■しかし,さきに述べたように,平井説は,連帯債務においては,保証と異なり,フジュウ性は生じないというように,相互保証理論のイロハを全く理解していません。 ■つまり,平井説は,相互保証理論を理解せずに,一方で「きわめて明快」と持ち上げつつ,他方で「説明に窮する」として,切り捨てているのであり,信頼に値する評価とはなっていません。 ■しかも,相互保証理論に対する批判として,「負担部分を基礎とした効果を生じる場合以外の場合(435条〔更改〕,438条〔混同〕についての説明に窮する(330頁)」という部分に至っては,恥の上塗りでしょう。 ■その理由は,以下の通りです。 ■第1に,民法435条(連帯債務の一人との間の更改)の問題です。 ■相互保証理論では,連帯債務者の一人が更改をした場合には,弁済の場合と同様に,一方で,その連帯債務者の負担部分の消滅によって,他の連帯債務者の保証部分がフジュウ性によって消滅すること,したがって,連帯債務の総額が減少することをうまく説明しています。 ■連帯債務者の一人の負担部分を越える弁済や更改は,他方で,連帯保証人としての弁済・更改となるため,その部分については,他の連帯債務者に対する求償権を確保するために,債務を消滅させず,民法500条以下の代位が生じることを通じて,連帯債務者間において求償関係を生じさせます。 ■そして,他の連帯債務者が求償に応じたときに,「弁済による代位」の対象となった「債権は,すべての連帯債務者の利益のために消滅する」に至るのです。 ■したがって,相互保証理論が民法435条の説明に窮するわけではありません。 ■最後に,民法438条(連帯債務者の一人との間の混同)の問題については,民法438条が,「連帯債務者の1人と債権者との間に混同があったときは,その連帯債務者は,弁済をしたものとみなす」と規定しているため,この問題は,連帯債務者の一人が全額を弁済した場合と同じ問題となります。 ■そうすると,連帯債務者の一人の弁済によって,連帯債務が負担部分の弁済によって減額され,残りの部分は,弁済した連帯債務者の求償権を確保するために,債権は消滅せず,民法500条以下の代位が生じること,他の連帯債務者が求償に応じた場合に,初めて,連帯債務全体が消滅することを説明し尽くしています。 ■平井説は,通説と同様に,連帯債務を別個・独立の債務と考え,連帯債務には,フジュウ性は存在しないと考えているのですから,一人の連帯債務者が連帯債務全額を弁済した場合に,なぜ,連帯債務が,「すべての連帯債務者の利益のために消滅する」のか,説明に窮しているのです。 ■他者の説を批判する場合には,自説によれば,その問題を克服していることを示すのが,マナーというものでしょう。 ■相互保証理論を批判する学説が,自らの矛盾と説明に窮していることを棚に上げているのは,残念なことだと,私は考えています。